金田 喜稔

日本サッカー協会がエリート教育を進めるということなんだけど、負けたときの態度とかサッカーへの姿勢とかに優れた選手を育てようということならいいと思う。いい意味での影響力があるエリートをね。でも、彼らがトッププレーヤーを育てようとしているなら、無理。だって、見る目ないでしょ(笑)。「遊び」と「環境」だけ与えれば、子供は伸びていくんだよ。そこに勘違いした人間が降りてって、ああだよこうだよと言っても、「個」を摘み取るだけだと思うよ。金田 喜稔 インタビュー エルゴラッソ 2005年1月17日

エリートという言葉を最近、サッカー協会が使っている。
この言葉に僕たちは弱い。それが、あまり意味のないことだと学んできはずなのに・・・
エリートという言葉には罪がないにしろ、この言葉が引き起こす波紋の形は、あまり形のよいものとはいえない。
「エリート君」という言葉の主がいるわけではないから、気を使うこともないのだけれど、エリートと呼ばれたとき、その人の才能がより輝いて伸びる方向には作用せず、かえって、まわりのやっかみやら嫉妬やらを生む。そういう種類の言葉だろう。
僕だって、この言葉が実質的には意味がないとわかっていても、ふと、そこに嫉妬心を感じてしまう。取り扱いに困るレベルの低い感情が、自分の中でわきあがってくるのを止めることは、結構難しい。
メディアで、エリートと使われるとき、それはどのように使われるのだろう?
統計を取ったわけではないが、「かつてエリートと目されていた・・・しかし」 みたいな形で、落ちた人間を揶揄するときに使われることが、結構多いのではないだろうか?
わかりやすく言えば、「ざまあみろ」という感情と裏表になっている。
金田さんが言うように、結果は明らかで、10年後は、エリートとして選ばれたうちの一人か二人が日本代表に残っている程度だ。ゼロである確率も高いだろう。
むしろ・・・・
エリートと呼ばれて、その後、そのグループからはずれた人間の心の傷のほうが気にかかる。
少年は、評判の 「上げ下げ」 に慣れていないから、一度持ち上げられてしまうと、落ちたときに復活を難しくしてしまう。
選ばれた思い出よりも、落とされた傷のほうが深く残ることになるだろう。
サッカー協会が取り組む、トレセン制度の参加選手に悪い兆しが見えいて、技術が高く、小粒で、個性が感じられない、という印象が、僕の地域の少年指導者からも、もれ聞こえてくる。
結局、制度の力が増すことで、少年たちの個を摘み取ってしまっているのではないだろうか? という大きなクエスチョンマークが僕の中ではずっとある。
おそらく、日本のサッカーを救う長期的な鍵のひとつは「選手の多様性」だ。
いろいろな個性を持った選手を生み出す土壌こそが、サッカーの列強に名を連ねる下地になる。
そのための目を、少年指導者たちが持ってくれると、うれしいのに、と思う。
選ばれることや勝利することは大事でも、それ以上に、子供たちの能力を伸ばすことの方が、ずっとずっと価値がある。
そのためには、エリート という言葉は、邪魔になるだけで、むしろ、無いほうがよい。
この金田さんのインタビューは、ずいぶん前のもので、インターネットで、別の探し物をしていたら、行き当たった。
つまり、ぜんぜんその発言内容が古びていない、ということなのかな。
多分、5年たって読み返しても、きっと同じように、僕をうなづかせると思うな。

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