クライフの言葉 路地裏がフットボールの学校

「私の学校は路地裏だったのです。」

「私がアヤックスに戻って最初に言ったのは、若い世代をうまく育てていないので、フットボールが出口のない行き止まりに足を踏み込んでしまった、ということです。もう路地でフットボール遊びをする子供たちはいません。私が子供のころにあった自然な習得の機会が失われていたのです。何も昔に戻れと言いたいのではありません。私が言いたいのは、即効性、迅速さ、自由なプレーなどをフィロソフィーとして、子供たちを育てなければならない、ということです。」

「ヨハン クライフ」 (中央公論新社) ミゲルアンヘル・サントス著

通りで遊んだり、路地裏で遊んだ経験を思い出してみた。
ふと気がついたことがある。
そこは、子供たちが自分の頭で常に考えていた、最高の教育場所だったのかもしれない、と・・・・
少年サッカーの現場を思い浮かべてみよう。校庭などサッカーをする場が用意され、ユニフォームを着て決まった時間に並ばされる。そしてトレーニングがはじまる。そのとき、子供たちには、「与えられたもの」だけが目の前にある。それは路地裏のサッカーと比べたとき、何かが違っている。
路地裏にいる子供たちは、どうやって遊ぶだろう。
まず、そもそもが、どこでサッカーをするか、子供たちは自分で決める(もちろん、そもそも何で遊ぶかも決めるわけだが)。
次にゴールをどこにするか、決める。フィールドの大きさを決めて、チームわけを自分で決めていく。
プレーがはじまると、いろいろ乗り越えなければいけないトラブルが出てくる。近くにおいてある植木鉢にぶつかってしまいそうになったり、近所のおばさんが、さも迷惑そうに出てくることもある。
突然、そして、思いつくと次々にルールが変更される。
壁にあたって跳ね返ってくるボールは、ワンツープレーとして認めることにして、出なかったことにする。
キーパーが手を使っていいフィールドに線を引き忘れたことに気づくと、「いいよキーパー無しっていうルールにしようぜ!」という。
そうすると誰かが近所の家の植木鉢を倒してしまう。そいつはレッドカードで退場になる。
路地裏のサッカー場は、自分で考えて、自分で決めていく場所なのだ。路地裏で遊ぶ子供たちは、脳みそをフル回転させている。
そして、次々に現れる壁や障害を、楽しんで越えていく。
なによりも、開放感とわくわく感にあふれ、誰にも命令されないし、制限がない。ルールだって作れる。
「ストリートサッカー」とよくいう。
貧しくても、夢を持ってがんばる象徴のような言葉だが、こうやって考えてみると、ストリートはまさに子供たちの学校になっているのかもしれない。
あらかじめ準備された練習場では得られない、子供たちを強くし、成長させるたくさんの刺激の酵素が組み込まれている場所なのだ。
サッカーをする路地裏が無い今、日本の子供たちは、どうやって似たような場が手にできるだろう。
クライフが言うような、フィロソフィー(即効性、迅速さ、自由なプレー)をどこではぐくめばよいのだろう。
「教育の場」が失われると、結果として子供たちのサッカーは衰退していく。テクニックは身についても、判断力が衰えた子供たちが増えていく。
路地裏が無くなれば、その国のサッカーは低迷する、、、、、 そんな法則があるのかもしれない。

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