フィンケ監督 浦和レッズとの子作りはうまくいくのか?

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「私たちはボールオリエンテッドなプレースタイルという子供を産もうとして、今はその妊娠期間に入ったわけです。この状況ではクラブにかかわるすべての人間が同じ方向を向いて『子供』を産む努力をしなければなりません」
フォルカー・フィンケ監督 月刊浦和レッズマガジン 2010年4月号

フォルカー・フィンケがレッズの監督に就任し、山田直輝や原口元気、高橋峻希がユースから昇格したとき、「ああ、つながったんだ」と僕はそう思った。
たまたま、僕は2005年と2006年のレッズのジュニアユースのゲームを数試合見ていた。2005年のチームには山田直輝と高橋峻希がいた。個々の選手の動きまでは記憶していないが、選手たちがよく走って、パスがつながっていく魅力的なサッカーを展開していた。2006年には小学生から有名だった原口元気が、フィールド上で躍動していた記憶が、今でも目に焼き付いている。
そのころのレッズのジュニアユースは、ボールも人もよく動く、魅力的なサッカーを展開していた。
一方、当時の浦和のトップチームは、ブッフバルトが監督で、ジュニアユースのサッカーとは、サッカースタイルが違っていた。
2005年の時、レッズユースから昇格した選手の名前を聞いた記憶がなかったし、しかも、トップとユースでは、サッカーのスタイルも、選手補強の方針も大きく違っているように見えた。ジュニアユースやユースの子供たちが、トップチームで活躍するのは、相当難しいかもしれない。当時の、僕はレッズのジュニアユースに魅力を感じながら、そんな思いで、彼らのプレイを見ていた。
しかし、フィンケの登場でレッズのサッカーはがらりと転換する。スタメンに原口元気や山田直輝の名前が登場する。短く速いパスが山田や原口を巻き込みながら展開していく。
じゃあ、そのフィンケについて書こう、とフィンケについて本格的に調べ始めると、どうも違和感を覚えて、書くのにつまづいてしまった。
この監督にはどうも何かが足りない。それが何かはしばらくわからなかったが、フィンケの言葉からは、どうもサッカーの情熱、勝利への執念が感じられないのだ。
僕は、監督たちの言葉を読むのが好きで、何人もの監督のインタビューを読んできた。たいてい、どの監督も、「ああ、この人サッカーが本当に好きなんだな」とか「なんて負けず嫌いなんだ」と思わせるような、サッカーへの愛情と勝利に対する執念が感じられる。その点では、グアルディオラもモウリーニョも変わらない。
しかし、フィンケの言葉からは、それが感じられない。もしかすると、この監督は、勝利に対する執念が足りないのかもしれない、と思えてきた。
フォルカー・フィンケの資料(といってもドイツ語以外のソースは限られる)で目立つのは、クラブチームや育成の施設とか、予算について語っている記事だった。
日本での最近のインタビューでは、戦術(ボール・オリエンテッド)について語る場面も増えているが、そんな時も、まるで「サッカー戦術 その歴史とモダン」という題名の授業を受けたような後味が残る。
フィンケの経歴を見ると、子供のころからサッカーに夢中で、サッカー選手にあこがれてプロを目指していた、というよくある話が出てこない。教師になるとは思っていたが、サッカーと関わるとは思ってもいなかったような口ぶりだ。
サッカーをやっていたのも、それで学費が稼げたからで、プロのサッカー選手になる夢などは微塵もなかったようだ。
実際、フィンケの経歴は、教師でスタートし、その後はバレーボールや卓球のコーチなどもしていたようだ。
その一方で、フィンケのサッカー監督としての実績は、かなりすごい。
SCフライブルクという、予算も哲学もないドイツ二部の小さなクラブチームを、あれよあれよ、と言う間に、ドイツを代表するモダンサッカーのクラブチームに生まれ変わらせてしまう。このクラブチームは、フィンケ前とフィンケ後で、まったく別のチームになっている。フィンケの16年間の長期政権は、大げさでなく、ドイツの奇跡の物語の一つだったようだ。
そのクラブチームで、フィンケは「サッカー・クラブの投資はまず足(選手)より石(施設)に」というスローガンを掲げている。
チームのお金、インフラの整備、模範的な育成組織、時にはクラブハウスの屋根の太陽電池まで、かなりクラブ全体の設計図に、アドバイスをした形跡が見受けられる。
フィンケについて調べれば調べるほど、この人は、根っからの教育者で、それこそ、未開拓の地域で、学校と教育システムを作るプロジェクトにかかわった方が似合っているのではないか、とそんなふうに思えてしまう。
しかし、とにかくフィンケが日本に来て、浦和レッズの育成とトップチームは、ぴたりとうまくつながった。まるで山田直輝たちが、卒業するタイミングに合わせてフィンケを呼んだのではないか、と思うほどのハマり方だ。
育成からトップチームまで、一貫したスタイルのサッカー。
もし、この新しい子供作りに浦和レッズが成功すれば、日本サッカーの歴史においても画期的なことになるような気がする。浦和レッズが、日本とアジアでタイトルを重ねれば、アジアで尊敬されるクラブになってもおかしくはない。少し大げさだが、フィンケと浦和レッズが歩きはじめた道程は、僕にはそんなふうに見える。
その一方で、心の片隅で、レッズにはブッフバルト時代の、リアクション型のサッカーが似合っているという意見にもうなづいてしまいそうになる。基本的には反対なのだが、確かにあの時代のレッズは、輝いていた。
今年も暑い夏がやってきて、浦和レッズは思うように勝ち点を積み上げられない。プロジェクトの設計図はいい。しかし、目の前の試合に勝ちきれない。
フィンケ自身の言葉や表情を見ても、その心の奥底では、短期的な勝利から、距離を置いて、もっと重要な計画を推進しているんだ、と言いたげな行間が感じられる。
僕がフィンケの言葉を調べているときに感じた違和感が、そのままフィールドのゲームに反射されたような風景だ。
フィンケと方向性が同じ、次の監督を見つけ出すのも一つの手段に思えるが、そもそもこのプロジェクトは、相当哲学のしっかりとした監督を見つけて、長期で取り組まなければ、実現できないだろう。果たしてそんな監督が見つかるだろうか?
ここまで書いて来て、どうも僕の中でも結論が出てこない。僕が悩んでもまったく意味がないのだが、腕を組んだまま、鉛筆を転がしたくなるような迷いがある。
どちらに進むにしても、ここしばらくの、浦和レッズのフロントの(変えないことも含めた)決断が、大きくこのチームの進む道を左右するような気がしている。
特に浦和レッズのファンではないのだが、この浦和レッズの新しい子供がきちんと育つよう、頼むから勝ってくれ、という気持ちになってくる。

コメント

  1. 正直、阿部がレッズに来た時は歓迎出来なかった。
    あの頃は金満クラブとか言われてて内心は「若手を育てろよ」と思った。
    実際、オジェックからゲルトにかけての阿部は守備の便利屋みたいな扱われ方をされてて生き生きとプレーしてなかった。責任感は強かったのは分かる。
    フィンケ監督になってから阿部がセントラルMFをやるようになってから楽しんでサッカーをやってるように感じた。

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