Google時代の日本代表に思う

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「70年代後半には、日本代表への選出を喜ばず、理由をつけて拒否する者さえ現れた」
日本代表70年代のベストイレブン 大住良之『冬の時代に自らを磨き世界へ挑んだ男たちの群像』

日本代表を語るとき、昔を懐かしむ言葉が最近よく聞かれるようになった。だいたいが、「テクニックは昔より向上したが、代表としての誇りは昔のほうが上だった」というものだ。ドーハの悲劇のときのラモスやカズを中心とするチームのほうが、ずっと代表としての魂を感じた、という声も多い。
今週のサッカーマガジンは、各年代の最強の日本代表という企画で、編集者やサッカーライターが、思い思いに、各時代を代表する11人を選び出している。実際にプレイすることのないチームを、言わば遊び心で紙上に作り出しているだけだが、これが滅法面白い。
詳しくは、サッカーマガジンを買って読んでもらうとして、たとえば90年代の日本代表ベストイレブンのメンバーを並べてみる。
キーパーは楢崎。ディフェンスは4バックで、左から相馬、井原、柱谷、秋田。中盤はラモス、名波、山口が握り、フォワードは、カズとゴン、その二人を操るトップ下に(当時)若い中田英寿…..
なるほど、魂を感じる。
90年代よりも、80年代の方が熱い感じがするし、50年代以前の代表においては名前を知っている選手がいないが、その時代の困難と孤独を思うと迫力は大きい。
紙面には、プロ選手や日本代表に対する誇りやこだわりは、今の代表よりずっと上だぜ、という一貫したトーンが感じられる。裏返せば、今の代表やプロ選手は、そこんとこ足りないんじゃないすか、という投げかけになっている。
今の代表と昔の代表は何が違うだろう。
いろいろ違うものがあるだろうが、僕は一言で言えば、「当たり前」が少なかったのだろう、と思った。
今はプロが当たり前になり、海外と戦う環境も整い、アジアで1位になるのは当たり前で、ワールドカップに出るのは当たり前、という昔では信じられない雰囲気がある。
昔は、すべてが当たり前ではなかった。プロがいない時代には、プロになるための境界が敢然とあった。境界は途方も無く大きく、プロとアマチュアの差というのは、もう体中で感じることができた。
アジアの壁は高かったし、海外も遠かった。ワールドカップなんて夢のまた夢だった。

当時の日本代表は胸に日の丸をつけてプレイしていた。しかしそのユニフォームに袖を通すことの喜びや誇りは、こうして敗退を繰り返しているうちに薄れ、70年代後半には、日本代表への選出を喜ばず、理由をつけて拒否する者さえ現れた。
そうした時代に、社会的にもまったく注目を集めることがないにもかかわらず、懸命に自らを磨き、くじけることなく世界への挑戦を繰り返した選手と監督たちに心から敬意を表したい。

そういう時代にあって、日の丸を背負うことや、サッカーでメシを食う選手になることは、かなり特別なことだったはずだ。
かなり特別なら、かなり特別なりのメンタルが備わり、その逆に当たり前なら、当たり前なりのメンタルが宿ることになる。
要は、選手の能力というよりは、やはり時代の雰囲気と言うほうが大きい。「時代のせいだよな、やっぱり」と思ったとき、「フラット化」というキーワードが頭に浮かんだ。
インターネットの業界で仕事をしていると、世の中がインターネットや検索エンジンやミクシイのせいで、どんどんフラット化しているのを感じる。フラット化とは要するに「違いや境界がよくわからない平坦な世界」のことで、もっとも典型的な例は、Googleの検索結果だ。そこには、一部上場企業も、個人のブログも平等に並んでいる。
境界がなくなるのは、よいこともたくさんある。僕は「フラット化肯定派」ではある。だいいち、僕がこうしてコラムを書いて、読者を獲得できているのだって、きっかけは、編集者がネットで検索して僕のブログを発見したからだ。
しかし、一方でフラット化で失われるものはいっぱいあるな、と最近は感じている。ブランドや伝統や老舗感がもっとも打撃を受けている。お店がパソコン画面より大きくならないし、接客の言葉もフォントサイズが同じテキスト2-3行だから、すごさがネットではなかなか伝えきれない。価格比較や送料無料に押されて、ブランドのある店も、ネットでは苦戦している。
いきなり、ネットと日本代表を結び付けてもなんだが、日本代表もフラット化している。その点は、正直ちょっと居心地が悪い。
プロが当たり前になり、選手やチームの実力が拮抗してきて、平均化された中から代表選手を選ぶので、乱暴に言うと誰が来ても強さは変わらないように見えてくる。
若手を日本代表に呼ぶことはよいことだ。ただ、いかんせん日本代表が多くなりすぎたり、背番号に大きい数が増えたりして、「ええと、あれ?日本代表ってこんなだったっけ?」と思っている人も多いだろう。
もしかすると日本サッカーは、「当たり前」の雰囲気を一度脱したほうがよいのかもしれない。フラットだと思っていたら、世界を見たら谷底に居た。
そういう新しい戦いの基準を日本代表に注入できないだろうか?
アジアや世界に対するもっと大きな危機感をもてないだろうか?
フラット化した代表に対して、世の中は少し醒めた雰囲気が出ているようだ。しかし、やがてそのことで、かえって日本代表への愛情がまた深まる日が来るだろう。
困難と愛情は比例関係にある。困難が深まれば、愛情も深まる。
そんな意味で、日本代表のアジアの戦いが楽しみだ。

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