困難なことは分かっているが、私は自分たちのサッカーに自信を持っている。2006年06月21日 ワールドカップ ブラジル戦前日 ジーコ監督会見
前回のコラムの続きだ。
今回気になったのは、「自分たちのサッカー」という言葉だった。
「自分たちのサッカー」という言葉が、選手の口から、ジーコの口から、代表スタッフのコメントとして、何度か聞かれた。自分たちのサッカーは、今回のワールドカップにあったのかな?
確かに、ポジティブな点はいくつかある。玉田のブラジル戦のゴールは素晴らしかったし、そこにいたるまでの稲本からはじまる展開も、よかった。
右サイドの加地や駒野が、世界レベルでも十分通用しそうなのも収穫だった。日本は中盤に人材が豊富だ。その点は今後も強化すればよいだろう。
一方、それに加えて、これからサイドプレイヤーが日本のもう一つの鍵になるだろうという印象が残った。世界に通用するサイドプレイヤーを育てていく国になれば、世界レベルでも通用する攻撃が展開できるように思えた。
でも、まだ、自分たちのサッカーは正直見えなかった。
誰かわかっていたのかな?
もしかすると、選手やジーコや協会も、僕らと同じようにわかっていなかったのかもしれない。他人にわかりやすく伝え、共有できなければ、本当の意味で、わかっているとは言えないような気もする。
そこまで、考えて、あれ、そういえば、とふと気が付いたことがあった。この日本代表をめぐる物語の展開って、どっかで読んだ記憶があるなぁ、とそんなことを考えはじめた。
いや、確かにこの展開は、昔読んだ物語に似ているような気がする。
子供ころ読んだ「あしたのジョー」「巨人の星」とかスポ根ものとかにもよくある話だし、そうそう、剣豪物とか、職人や料理人の修行話とかでも同じような展開だ。ひょっとしたらお釈迦様に従う孫悟空も、この典型的な物語の一つかもしれない。
これらの話に共通なのは、血気盛んな若者が持ち前の才能で最初の数試合に勝って、「たいしたことないぜ、オレは負けない」と自信たっぷりに勝負事にのぞむと、無残に打ち砕かれて手痛い敗戦を喫する。
確かそんな展開だった。
「どうしたんだ、いったい。このオレが全然手が出ないなんて」と屈辱的な負けに相当落ち込むのだが、若者は意を決して、師匠のところに頭を下げに行く。「オレにボクシングを教えてくれ」とか「修行させてください」と言って、「厳しいぞ。絶対に弱音ははかないと誓うか?」と師匠に言われると、素直に従っていくのだ。
そうそう、こういった若者には、決定的な欠点がある。野球だったら球質が軽いとか、ボクシングだったらパンチが軽い、とかフィジカルやメンタルに根ざした問題なんかもあったりする。
でも、師匠と一緒に、それを克服する。その若者独自のスタイルやら秘密兵器を身に着けていくのだ。今度は師匠の方が、「こやつ、やはりタダモノではなかった。ワシの目に狂いはなかった」とか、そんな展開になったら、後は頂点を目指して走っている。
この場合、日本のサッカーにたとえると、「若者」は特定の代表選手を指すのではなく、「日本サッカー」というかたまりだ。師匠はジーコとかオシムとか具体的な代表監督ではなく、「日本サッカーの神様」みたいな存在だ。
そうやって考えると、あまりに符合する。
僕らの日本サッカーは、確実に階段を上ってきたと思ったが、よくよく振り返ってみると、たった三段目でしかない。ポルトガルに比べれば、サッカーの国としては、全然子供だし、韓国にくらべたって経験年数は圧倒的に少ない。
世界と戦える才能が揃ったから、「ブラジルにだって勝てるぜ」と思っていたが、いざ自由を与えられたら、ブラジルどころか、オーストラリア相手にも、ほぼ何もできなかった。そもそも、戦い方を知らないし、基本的なゲームを読む力だって、皆無だった。結構いけるかも、と気を緩めた瞬間に、容赦ないパンチが飛んできた。終わってみたらボロ負けといっていいだろう。
落ち込んでいるところに、「ヒュウマよ、お前には決定的な弱点がある」とか星一徹風のジーコにフィジカルの欠点を指摘されて途方にくれているような状態だ。
師匠、僕らに本当のサッカーを教えてください!と頭を下げたい気分だったところに、それっぽいオシム師匠がぬぼーっとあらわれる。このじいさん、タダモノじゃない、という展開で、「人真似ではいかん。日本には日本にあったサッカーがある」とか「自由には責任もあるのじゃ」とか言われる。
じゃあ、オシムに日本サッカーについて聞こうとしても、彼はきっとのらりくらりと答えないだろう。「それをお前が作るのじゃ、走って考えろ」と喝破されて、また走らされるのだ。
ここはとても大事な時期だ。真剣勝負を少し休んででも、呪文のように言っていた「自分たちのサッカー」について、真剣に考える時期に来ている。
トルシエとかジーコとか、はたまたオシムとか、誰かが外国から僕らを助けてくれる、という気分のままでは、この国のサッカーは駄目なままだろう。たった三試合を見ただけなのに、こんなに死にたいぐらい落ち込むんだ。他人任せにする前に、僕自身だって立派な当事者だ。
それこそ、サポーターから、少年サッカーのお父さんとコーチとか、飲み屋で愚痴をいうおじさんとか、そんなレベルまで、この国のサッカーについて考えて議論する。どんなサッカーをよし、として、どんなサッカーをよくないサッカーとするのか、そのことをゲームを積み重ねて、文化として決めていく。
このワールドカップを通して、僕ら日本サッカーが学んだことは、山のようにある。
「走ることがサッカーの基本だ。1人でも休んだら負けだぞ」とか。
「ゴール前は、自分勝手になっていいんだぞ」とか。
「間違っても、ゴール前でパスなんかするなよ」とか。
「ペナルティエリアまでひいたら、やばいんだぞ」とか。
「ボールを見てマークを見ないのは駄目だぞ」とか。
「背が小さくたってイタリアでセンターバックができるんだぞ」とか。
きっと次の日本代表に向かって言うべきことが、もしかすると、このオシムとの数年で、固まりつつあるように思える。
もし「日本のサッカー」について、ある程度のたたき台ができれば、きっと何回か後のワールドカップで、振り返った時、「あの苦しみがあったから」とポジティブに捉えられるはずだ。
日本サッカーという若者にとって、今が「自分のサッカー」を見出す、またとないチャンスだ。
コメント
こんにちわ。先日お話を聞かせて頂いた杓谷です。
また改めてブログを拝読させて頂いてます。
どのコラムも分析の仕方が深くて大変読み応えがあり、
僕にとってかなり示唆のある内容で読んでて楽しいです。
静岡出身ということもあって昔からサッカーに
触れる機会が多く、高校も三浦和良の実家のすぐ近くでした。
ドイツ大会でのジーコ監督の「自由」なサッカーは
確かに魅力的なものが面もありました。
あのメンバーがフルに創造性を発揮できれば
かなり面白い試合が出来たんじゃないかなと思いました。
直前のドイツとの親善試合でその片鱗を見た気がしました。
ただ、選手に自由にやらせるサッカーというのは
それぞれが統一した意識を持っていないとできないはずです。
控えの選手も含めて誰がどこに入ってもしっかり
チームとしての約束事が身についてあるべきです。
その点今回は最後の最後まで選手同士で統一した意識を
持てなかったのが原因の一つにあるのかなぁと思います。
DFのラインを引くのか上げるのかでもめていたようですが、
どちらかが納得するまで、いや、、利点が明確にわかるために
話合いをもっと積み上げるべきだったのかなぁと思います。
でも今回は試行錯誤したなかでよくやった方だとも思います。
難しいですね、組織というのは。
以上長々と失礼しました。
オオウチドットコム、いつも楽しみに拝見させて頂いてます.(と言ってもモウリーニョの記事だけですが、、、)
それはさておき、随分時間が経ってしまいましたが、この記事を2007年の今日になって拝見しました.いつもドウリ、非平凡な見解で、非常に興味深かったです。 しかし、いくつかオオウチドットコムの、意見を聞きたくなりました.それは、代表監督と、クラブの監督とでは、現実的な部分で大きく違うという事です.フットボールゲームの指揮者である事は同じですが、様々な点に置いて(as u know )異なる立場に思えます.更に、これは、全く私見ですが、ジーコ監督に連盟(または、日本人)が求める物と、監督がチーム(しいては日本人)に求める物にやや違いが在った様にも思えます.そして、一番大きな関門は、全ての日本人(選手も含む)が気づかなくてはいけない.この世界における社会的な立場と、フットボールの世界における立場は別物だと言うこと.いつから日本代表は、WCの決勝トーナメントに行くのが当たり前になってしまったの?? 何か御意見いただければ光栄です.
P.S. これからも独自の記事、楽しみにしています.
(モウリーニョの記事がもっと見たい!!)
オオウチコムです。felixさん、コメントありがとうございます。
モウリーニョの記事は好きな人が多いようです。
僕も彼については書きたいことが山のようにあるのですが、彼の記事ばっかりになるのを避けているところもあります。
でも、近々書きますね。
さて、いただいた質問は、広い話なのですが、日本代表ぐらいになると、単なるサッカー選手やサッカーゲームじゃなくなっている、という部分はありますね。
社会的な立場の重さがぐっと重くなって、フットボールの世界をゆがめてしまっている、というのはあるように思います。
また、ちょっと考えて見ます。