マラドーナと俊輔のフリーキック

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「私は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない」
マラドーナの引退会見の有名な言葉

聞かれもしないのに正直に告白すると、僕はマラドーナをよく知らない。
僕が本格的にサッカーファンになったのは、ドーハの悲劇のころからだ。
だから、僕が知るマラドーナは、アメリカワールドカップで、カメラに向かって尋常でない雄たけびを上げる姿からはじまっている。
あとは、何度もリプレイされる神の手のゴールと、5人抜きのゴール、それとテニスボールやオレンジなどサッカーボール以外の丸いものを、器用にリフティングする風景。そんな感じか、、
マラドーナの話題は、薬の話からはじまって、どんどん生活と身体を破滅に近づけていく姿ばかりだった。
少しまともな状態で出てきても、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしていた。
マラドーナが偉大であることを否定するために、この文章を書いているわけではないのだが、僕のつたない経験の中で、偉大なマラドーナに対するシンパシーというのが、持てずに今日に至るのだ。
その点は、少し後ろめたい感じでもある。サッカーが好きだ、といいながら、マラドーナを知らないってどういうこと?
話は変わる。
すごくお世話になっている人たちから、ある日、誕生日プレゼントのように、マラドーナのDVDというのをもらった。
「大内さん、マラドーナについて、まだ書いてないですよね?」
こんなブログでも、「トーレスについて書いてください」といったリクエストのようなものは、たまにもらう。たいていは、そういったリクエストにはすぐに答えて、書くようにしているのだが、、、
マラドーナかぁ、とため息をつき、書くの難しそうだな、とそう思ったのを覚えている(もちろん、プレゼントはすごくうれしかったんですけどね)。
フェルナンド・トーレスについてはすぐ書けて、マラドーナについては二の足を踏むのはなぜなんだろう?
DVDは充実していた。半分は栄光、半分は破滅のドキュメンタリーで埋まっている。
もう無茶苦茶な人生だよな、と思いつつ、エピソードの多くを僕も知っていた。特に後半の破滅の方は、意識しなくても日々のニュースでどんどん耳に入ってきたわけだ。
そのドラマチックな人生の中に、本当に少しづつ、ピッチで真剣にボールを蹴るマラドーナの映像が入っている。
マラドーナはワールドカップに出る前、日本で行われたワールドユースで優勝した。この大会でマラドーナに衝撃を受けた日本のサッカーファンも多いと聞く。
そのワールドユースの映像では、決勝の相手がソビエト連邦だった。赤いユニフォームに、CCCPと書かれたユニフォーム。僕の息子や娘はそんな国のことを知らない。
マラドーナのフリーキックの場面が映る。
マラドーナが優勝に喜ぶ姿は何度も見たけど、このフリーキックは、はじめて見た。まったく勉強不足だ。
背の高いロシア人たちの壁が目の前にあった。僕は映像を見ながら、その壁の上を大きくカーブして落ちるフリーキックを想像していた。
しかし、若きマラドーナは、違うコースを選択する。
蹴る側から見て、向かって左側の方を低い弾道で曲がってゴールに吸い込まれる。壁の左側を回るような低い弾道・・・・
あれ? これって最近の俊輔のフリーキックのパターンじゃない?
今シーズンのセルティックで、はじめて決まった俊輔のフリーキックは、確か壁の左側を狙った低いやつだ。日本代表のバーレーン戦で決めたやつも、似ているような気がする。
俊輔のフリーキックだけではない。
マラドーナのプレイを見ると、なぜかどこかで見たことがあるような気になってくる。
名古屋でピクシーがキーパーを交わした後に、ゴールの目の前でやったプレイに似ていたり、チェルシーでゾラが蹴ったフリーキックに見えたり、どこかで見たパスだったり、フェイントだったりする。(それにしても、ピッチが悪い中でも完璧なボールコントロールなのは改めて驚く)
彼らの元ネタをばらして意地悪な気持ちで喜ぼうと思っているわけではない。俊輔が、マラドーナのフリーキックをマネした、なんて確信は少しもない。
いや、そうだったら面白いな、という願望はあるが、単なる偶然かもしれない。
DVDの中で、マラドーナは、アルゼンチンの満員のサッカー場で、引退のスピーチをしている。
「私は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない」
この言葉どおり、マラドーナの破滅の人生と、サッカーボールは関係ない。いや、マラドーナが言いたかったのは、自分のプレイについてだったのではないだろうか?
マラドーナはサッカーをプレイするのが何よりも楽しい。喜びは喜びとしてそこにある。自分が純粋にプレイしたサッカーは、自分の犯した罪とは関係なく、汚れずにいつまでも残っている、と。うまく言えないが、そういうことじゃないか、と思う。
確かに、マラドーナがいくらダメな人生を転げようが、彼がプレイで見せた驚きと喜びは、ずっと残っていくだろう。
サッカーがある限り、誰かがマラドーナを引き合いに出してうれしそうに語っている。マラドーナがどんなにひどいやつでも、マラドーナのプレイを語る人々の顔は、笑顔で満ちている。
少年サッカーでドリブルで何人かを抜く少年がいる。ゴールに迫ってもう少しのところで、シュートをはずす。
「今の決めてたらマラドーナだったな」と少し年取ったコーチが笑いながら少年に話しかける。少年は何のことかわからずに、キョトンとしている。
「5人抜いたってことだよ」と少し知識のある少年が横からコーチの言葉を翻訳する。
そんな風景も、日常の中でよくあったな、と思いだす。
マラドーナのまねをしているかどうかはさておき、サッカーで少しでもエキサイティングなプレイがあれば、世界のどこかで、「マラドーナのあのときのプレイに似てるな」と思っている人がいるのだ。
おそらく、俊輔もゾラもピクシーも、あらゆるサッカー選手の中に、マラドーナのプレイの記憶は喜びとともに残り続けている。たとえマラドーナがどんな状況にいようとも、それは関係ない。
僕は、俊輔に面と向かって聞く場面を妄想する。
「ねえ、あのフリーキックってマラドーナがヒントだったりしない?
すごく似ているんだけど、、、」
俊輔の答えがYESでもNOでも、きっと俊輔は、マラドーナのことを語り始める。彼のどのプレイがすごいと思うか、自分なりに語り始めるだろう。
うれしそうに、子供のように。


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