僕らはダイアモンドが見たい 10年先の日本のサッカー

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「10年、20年先を目指した時に何が必要なのか。そこを見誤ったら、世界に追いつくどころではなくなる」小野剛 日本サッカー協会技術委員長に聞く(読売新聞 06年10月31日)

少し前になるがU-21の親善試合、日本対中国を国立競技場に見に行った。
5万人以上収容できる国立に2万人強という観客で、仕事が終わってからの当日券でも、十分見やすい席が確保できた。
試合は2-0で、日本の快勝だった。
日本の若いチームの出来はよかった。
特に中盤やサイドの守備は、ほとんど中国を自由にさせていなかった。明らかに反町監督の戦術が、有効に機能している。
質の高いプレイ、相手を翻弄するスペースへのすばやい動き、激しくいくプレス、チームとして明確な意図が感じられる、そういった試合だった。
でもなあ、と僕は国立の席で頬杖をつきながら思う。
しっかりした「戦術」の展示を見に、忙しい仕事をかなぐり捨ててこのスタジアムに来たわけじゃないのにな、とそうため息をつく。
そして「ああ、稲本はすごかったな」と、ぜんぜん違う時代に思いをはせていくのだ。
少しだけ秋の風が感じられる国立競技場に座りながら、思い出していたのは、98年11月に行われたシドニーオリンピックの壮行試合、対アルゼンチン戦だった。
そのときも、やはり国立競技場のバックスタンド、確か同じような席に座っていた。
試合時間も同じように夜で、トルシエ監督の初采配となるその時は、稲本が激しくあたって奪ったボールを、中村俊輔が綺麗にループシュートで決めて、1-0 の勝利でアルゼンチン五輪代表を破っていた。国立競技場もほぼ満員になっていた。
思い出が勝手なものだ、というのは承知の上だが、あの日とこの日は、選手たちを照らすスタジアムの照明さえも違っていたように思える。
僕の脳裏に残っている小野、中村、市川、稲本は、ダイヤモンドの粉を身にまとって走っていた。
走る量では圧倒的に上回っているはずの、今のU-21のチーム。本田もよかったし、梶山もよかった。ディフェンスで6番を背負った青山の果敢な守備も目を見張った。
それでも、誰もダイアモンドの粉を、身にまとっているものはいなかった。若く希望に満ちているはずの世代は、とても日常的で現実的な明るさの中で、サッカーというお仕事をしていた。
選手たちが小粒になっていく。輝くオーラを持った選手が、発見できない。そういった時代がしばらく続きそうで嫌な感じだ。
それはトレセン制度と、クラブチーム中心の育成が生み出した一つの帰結だろう。
トレセンのネットワークを通じて、行き渡っていく情報は、小学生の高学年で、戦術の池の中に子供たちを沈めてしまう。
トレセン制度はもちろん、ポジティブな面が多い。トレセンがなかったころは、子供たちは、たいてい強いチームから選ばれることが多かった。弱いチームからも、選出されるようになったのは、トレセンのネットワークが行き届いているからだ。
サッカーのレベルも明らかにあがった。
スペースを見つけて走るサッカー、激しいプレス、少ないタッチの連携、身体能力が劣る日本人が目指すサッカーが見えてきた。
いったん方法論が決まれば、日本人の勤勉さは、短い時間でそこに一気に磨きをかけてしまう。
しかし日本人が運営する限り、このトレセン制度は、規格外の選手を見つけることが不可能に近くなっている。
トレセンの存在は、親や子供たちにとって大きな存在になる。それはお受験であり、教育指導要領になる。
制度が行き届いたときの恐さは、そこにある。
いい選手をくまなく見つけるための制度そのものが、制度を安定して運営するために自分を縛りはじめ、いい選手を生まれない土壌を作ってしまうのだ。
そうなったとき、制度の中から「もっと自由で個性的な子供たちがほしい」というメッセージを出しても、それは矛盾した、不可能な希望でしかない。
行き渡った制度から、規格外が出ることは、構造的にありえない。
ぜんぜん違う話だが、アメリカの経済は常にベンチャー企業が、新しい波をもたらし続けている。アップル、マイクロソフト、インテル、そして停滞の中で、グーグルが登場する。価値観を壊しながら、小さい挑戦が続けられる社会的な仕組み。
規格外であることを格好いいと感じている学生たち。常に想定外で規格外の新しいものを探し続ける投資家たちの目利き。新しいものに飛びつくメディア。いいものなら積極的に使う利用者。
その仕組みは、突き詰めれば、個人の思い、個性の小さな集積によって、作られていく。中央はいない。中央が統括する制度からは、決して新しいチャレンジ、規格外の才能は生まれてこない。
どうにかして、子供たちの世界に、トレセン、クラブの育成とは、違うパラダイムを持ち込めないものだろうか?
サッカー協会やクラブチームとは離れて、子供たちがはしゃぎながら、ボールを弄り回す場所を、地域が持つ。そこに僕らが投資する。
そういった試みを、地域単位で考えていかなければ、日本のサッカーを変えることはできないのではないだろうか?
サッカー協会のやるべきことは、自分たちのネットワークを広げていくことではなく、それを縮めていくことかもしれない。
個性的な地域の試みを縛ることなく支援していくような、新しい育成の市場を促進すること、そんな試みができないものだろうか?
サッカー協会は考えてみれば不思議な団体だ。目的は、自分たちが儲けることでも、自分たちの制度を完璧にすることでもないはずだ。そして日本の団体なのに、ちっともドメスティックではない。常にアジアや世界の試験が待っている。
中央から与えられた青い制服を着る国になるのか、躍動するダイアモンドを、日本中の地域が生み出す国になるのか?
世界を考えたときに、この10年の試みは鍵を握っている。

コメント

  1. まさし より:

    あなたの考え方にすごく共感することができました。

  2. nori より:

    まさしさん コメントありがとうございます。
    僕もこんなことを書きながら自分では何もアクションを起こしていません。
    いつか自分が参加できる日が来るといいなと思います。
    大内

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