徳川慶喜の名前とか呼び名って、いったいいくつあるんですか?

徳川慶喜のよくある質問
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歴史において「名前」はちょっとした深い沼です。
徳川慶喜の名前と呼び方について調べて整理してみました。なにしろいっぱいあって混乱します。現代の常識やルールとはぜんぜん違うので、理解するのが大変です。

歴史を調べると名前がいくつもあって混乱します

歴史を学ぶ際に「え?」って思うのは、同じ人なのに名前が違うというやつですね。だって、桂小五郎(かつらこごろう)と木戸孝允(きどたかよし)が同じ人なんですよ。「なんじゃこれ?」って混乱します。

おおうちこむ
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歴史小説を書き始めようと思って、いきなりこの名前問題にぶちあたりました。なにしろいろいろあるので迷う迷う。さらに慶喜はその沼が深い!

前置きはこのくらいで、さっそく行ってみましょう。

わりと正式な名前

おおうちこむ
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そもそも「ホントの名前で呼ぶのは失礼だし危険という文化=諱(いみな)」があったわけです。私たちの「本名」が、親しい人だけ限定のコードネームというわけで、「なんのための名前なの?」と叫んでしまいます。幕末はそこんとこ、どれだけ厳しく考えていたんでしょうね?

七郎麻呂(しちろーまろ) 松平七郎麻呂

これは子供時代の幼名です。童名(わらべな、わらわな)とも言いますが元服前の名前です。
お父さんの徳川斉昭(以下斉昭パパ)は、長男を除いて男の子供を番号制でつけていきました。
斉昭パパには37人(すごい!)の子供がいます。男の子22人(サッカー2チームw),女の子15人で、七郎麻呂は7番目の男子です。最初からたくさん産む気で番号制を採用してたとしたら、この人物は、エネルギッシュかつ合理的、面倒くさがりで、強引というプロファイリングになります。関わらない方が身のためですね。
この時代、子供の名前はどうせ元服で変わるので、番号制でつける武家は多かったと思われます。
慶喜は7番目の男の子なので「七郎麻呂」、10を超えて悩んだどうかは知りませんが、11番目は「余一麻呂(よいちまろ)」、20番目は「廿麻呂(はたちまろ)」、21番目は「廿一麻呂(はたひとまろ)」です。
こっからはあまり知られていませんが、慶喜の正式な幼名は「松平七郎麻呂」なんです。

おおうちこむ
おおうちこむ

出た!松平。「あっちもこっちも松平♪」って髭ダンのメロディが…..

松平姓を見るたびに頭で鳴るので困ります。でも同居家族に徳川と松平がいるんですか?

ケイキ君
ケイキ君

将軍家、御三家、御三卿の嫡男だけは徳川が名乗れるけど、それ以外は松平らしいよ。

あと越前とか会津の親藩とか特別な部下だけは名乗れる。徳川と松平の高級ブランド化だな。

茨城のお菓子屋さんが「七郎麿ポテト」というお菓子を販売しています。大河ドラマ「青天を衝け」で爆売れ、かどうかは知りません。まだ食べたことないです。おいしそうです。

昭致(あきむね) 字は子邦(しほう) 号は興山(こうざん)

出た! わけわからないやつ。こんなん知らないよ。慶喜本でもあまり見かけないような。
8歳のころ水戸藩藩主の斉昭パパから昭の字をもらって昭致(あきむね)です。一橋家を継ぐことが決まってから、実際に継ぐまでの名前ですかね。期間が短いです。
同時に、字として子邦(しほう),号として興山(こうざん)を授かりました。字とか号とかは、書とか歌とかの時に使う便利な呼び名、ペンネームでしょうか。

徳川慶喜 一橋慶喜 (よしのぶ)

やっとよく知っている名前に落ち着きました。ほっとしますね。
弘化四年(1847年)11歳で一橋家を継ぐことが決まったので、この頃からもう徳川の「苗字」を名乗りました。徳川慶喜になっています。
元服の時に12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)から慶の字をもらって徳川慶喜となりました。いきなり日本の頂点から、ポンと名前をもらっちゃいます。まあ家慶は気前よく24人ぐらいに自分の名前を上げてるみたい(福井藩の松平慶永など)ですが、慶喜の場合はお世継ぎを匂わせてる感じなので特別です。
将軍家慶は慶喜をすっかり気に入ってしまい、同じ江戸城内の一橋邸宅によく足を運びました。
慶喜を自分の次の将軍にしたい、とワガママを言い出します。老中の阿部正弘に「いや、正式な子供いるんだから」と諭されて断念しています。
一応こっから死ぬまでこの名前です。

ところで、Wikipediaには、アルファベットで「Yoshihisa」と書いたと記載があり、「よしひさ」と称していた説があるようです。ただ、これはお孫さんなど親族や近い人の証言がないので、さすがに「ヨシノブじゃなくてヨシヒサがホント」はないんじゃないですかね?
『ヤングジャパン』という幕末の外国人の書物に記載があるとのことですが、私の手元の本では見つけられず…..。ただ『ヤングジャパン』は面白い書籍です。

源慶喜 (みなもとのよしのぶ)

朝廷や外交など正式な書面には「源」または「源朝臣」で署名をしています。慶應三年(1867年)に慶喜は将軍として、デンマークと修好通商航海条約を締結し、その条約は「源慶喜」の署名です。

この時代の人は「苗字」とは別に「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を持っている場合があり、正式には「源朝臣徳川内大臣慶喜」となるそうですが、もうわけがわかりませんね。
朝臣って「あさしん」って読むの、これ何?
「源(みなもと)」は氏(うじ)
「朝臣(あそん)」が朝廷から与えられた姓(かばね)
「徳川」は地域に由来した家の名前で苗字
となる分類です。内大臣は朝廷での位ですね。氏には「の」をつけます。
「みなもとのあそんないだいじんよしのぶ」、ああややこしい。

「源」ですが、徳川家康がそもそも源氏を名乗っていました。武家政治、幕府、征夷大将軍の起源である清和源氏の末裔だぞ、と言いたいのでしょう。天皇がいっぱい子供を産んだ時代に、財政が大変なのもあって皇室を整理し「源」を与えました。臣籍降下(しんせきこうか)、今で言う皇室離脱でしょうか。その時与えられた姓が「源」で、天皇家が源流だということを示しています。
でも徳川家の源氏は嘘っこです。家康は家系図を買い取って自分の家系図にしたと言われています。え?詐欺じゃんと脊髄反射しましたが、この時代はそこまで悪い事じゃなかったのかもしれません。
「朝臣(あそん)」は朝廷用の名前で、朝廷の仲間に入れてやるから朝臣て名乗ってOKということなんでしょう。日本四姓というのがあって、平朝臣、源朝臣、藤原朝臣、橘朝臣で、これで9割方の偉い人がカバーできたようです。
ちなみに「姓(かばね)」にはランクがあって「朝臣」は当時一番ランクが上だったようです。

もう松平と源氏の謎でお腹いっぱいです。

誰がどう呼んでいたか?

おおうちこむ
おおうちこむ

これが私の最大の関心ごとです。歴史小説を書くと、この人は慶喜をなんて呼んでたんだ? と気になって書けなくなってしまいます。
当然当時の音声なんか残ってませんし、歴史文書は文語体なので、口語体、しゃべっている会話文の記録が、ほとんどありません。

慶喜は自分をなんと言っていたか?

口頭の場合は「私」でいきます。これは『慶喜公行状私記』という側近バディの平岡円四郎が書いたプロモーション文書にありました。現代人もわかる言い方で、よかったです。
文書の場合は「臣」「臣慶喜」と自分から言っているのが確認できました。朝廷に対する場合かもしれません。

側近は何と呼んでいたか?

平岡円四郎とか渋沢栄一など側近は慶喜を何と呼んでいたか?
「殿」または「公」というのが多いです。「一橋様」もあると思われます。『慶喜公伝』などでも幕末期にこう呼んでいました。ここで「慶喜様」とは呼ばなかったと思います。
側近同士や他人と慶喜を話題にするときは「公」「一橋公」「一橋様」があり、将軍になってからは「公方様(くぼう)」「上様」などを見つけました。

  • 「公」は一橋公だから
  • 「上様」は徳川家を継いで将軍になったから
  • 「先様」は将軍辞任後の呼び方で「先の将軍様」という意味
  • 「御前」は昔夢会筆記や、晩年慶喜に仕えた侍女の回想談で「御前」と呼ばれています
武家や朝廷など周囲は何と呼んでいたか?

「一橋中納言」とか「一橋公」「一橋様」などで、将軍になってからは「公方様」「上様」を見かけます。
一方、「あいつが」みたいに少し悪くいう場合は「橋公」「一橋」とか、さらにひどいと「豚一」などのあだ名で呼んでいるのを見かけます。将軍になったのに「一橋」で呼ぶのは、揶揄したニュアンスを含む場合があったようです。

斉昭パパや孝明天皇など親しい人は何と呼んでいたか?

親しくて、かつ慶喜より上の人は限られています。これは記録がないと思いますがお母さんの吉子さんも含めて「慶喜よしのぶ」と呼んでいたと思います。
奥様の美賀子様はさらに記録が見つかりませんが、夫婦間は上下関係がありそうなので「殿」と呼んでいたと考えています。

新門辰五郎やお芳は何と呼んでいたか?

慶喜は江戸の町の火消しの親分の新門辰五郎と、想像を超えた親しい関係にありました。辰五郎の娘のお芳は、慶喜の妾になっています(ただし、伝聞以外の正式な記録でお芳の存在は確認されていません)。
辰五郎やお芳との会話なんて、まったく記録がないです。なのでここは小説書く人の想像力でオッケーですね。
私は「一橋殿」と辰五郎が町中で呼んだら、「いいから、ケイキと呼んでくれ」という会話を想像してうれしくなります。辰五郎はちょっと困りつつ「じゃあ、ケイキさんで」なんてね。
お芳は「あたいはケイキ様だけどケイキって呼ぶこともあるよ」って言わせたいです。

ニックネーム

豚 一 (ぶたいち、とんいち、どっちかな?)

豚肉は当時まだ珍しい食べ物だったかもしれませんが、慶喜は豚肉が大好物でした。「将軍の癖に、そんなチャラいもん食いやがって」という感じでしょうか?
主に豚肉は薩摩藩から調達したようです。
薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)に、何度も「豚肉送ってくれ」と手紙で依頼しています。小松帯刀(こまつたてわき)が「もう手持ちの豚肉がなくなっちゃったよ」と頭を抱えている手紙が残っています。この辺はまた後ほど。

二心殿(にしんどの、ふたごころどの、どっちかな?)

福井藩の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が言ってました。春嶽に限らずでしょうが、みんなあだ名をつけるのが好きですね。
慶喜が「ころころ主張を変える」ので「慶喜は二人いるのか? 」と、まったく困った人だ、という思いでしょう。たとえば文久三年末から四年にかけてギネス並みに短い朝廷参与会議で、開国派のはずの慶喜が突如「横浜鎖港」を主張して、参与会議をつぶしてしまいます。
春嶽からみれば「そりゃ無いでしょ?」と言いたくなりますが、「臨機応変に考える」現代的な人にも見えます。アジャイルなプロジェクトでも対応できそうです(テキトーに言ってます)。

ねじあげの酒飲み

これも福井藩の松平春嶽が言っていた皮肉です。松平春嶽は慶喜の近くにいましたが、慶喜には繰り返しびっくりして、正直あきれていたんでしょう。
「飲め」「いやだ」「飲んでくださいよ」「やだね」「じゃあ、いいですよ」「おい、なんでもっとススメないんだ?」「え?飲みたかったんですか? じゃあ飲んでください」「じゃあ、しょうがないな」というやつですね。面倒臭い人です。
松平春嶽は、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)のあと、慶喜に将軍になるようにすすめますが、慶喜はこれを拒否します。なかなかウンと言わないけど、そのうち将軍になる面倒な人ということで「ねじあげの酒飲み」とあだ名を付けました。
春嶽の予想通りで、実際に4か月ごねた後で将軍になりました。ただ慶喜が将軍という酒を飲みたがっていたのか、その本心はどうなのか? ここも面白いのでまた後ほど別の投稿で。

剛情公 または 天下剛情公(てんかごうじょうこう)

一度「これ」といったら考えを変えない。「二心殿」や「ねじあげの酒飲み」とは明らかに矛盾しますが、どれも慶喜が周囲の期待とは違う決断をするので、ついたあだ名だと言えます。期待と違うので周囲は慌てて説得しますが、慶喜は応じません。また剛情公がはじまったよ、という感じでしょう。
たとえば慶喜が13代の家定や14代の家茂と将軍後継争いをしたころ「将軍になりたくない」と言っていましたが、円四郎あたりは剛情と思ったのではないでしょうか? 将軍になりたくない、とかありえないのに、まだ言っているよと。
これも私は「何事も自分で根本から考えて判断する」人と、プラスに受け取っています。

ケイキ殿 または ケイキ様

慶喜がもっとも気に入っていたあだ名というか、呼び方ですね。
多分「公」とか「上様」と言われるのが堅苦しくて嫌だったんだと思います。上下関係なんて意識しなくていいぞ、という感じでしょう。えらい人だから言えるんですけどね。当時の「本名呼ばない文化(諱いみな)」から「よしのぶ」って呼んでとは言えないので、その結果「ケイキ」となった。
将軍を引退してからも、手紙で「ケイキ」と名乗ったり、周囲の町民なんかが親しみをこめて「ケイキ様」と読んでいました。
海外のサイトでは、Keiki Tokugawa と表記されているサイトが意外に多いです。
きっとこの軽い響きを愛していたんだと思います。私はこの親しみを込めた呼び方が大好きで、小説の題名にしています。

家の格とか官位からの呼び名

刑部卿(ぎょうぶきょう)

このあたりは不得意なので、間違っているかもしれません。
一橋家、田安家、清水家を御三卿といいますが、これはこの三家が刑部卿、民部卿、兵部卿を名乗ることができたので御三卿というわけだそうです。
慶喜は一橋を継いだ時に、刑部卿になりました。「卿」は大臣に近い意味だと思いますが、刑部卿としての仕事はあったんですかね?
事典風に書くと「弘化四年、一橋家を相続し元服、従三位左近衛中将に任じ、刑部卿と称し、名を慶喜と改めた」となります。

権大納言(ごんだいなごん)とか 内大臣(ないだいじん)

これも事典的な書き方をすると、「慶喜は慶應二年八月に徳川宗家を相続、ついで十二月権大納言・正二位・征夷大将軍、その後内大臣に任叙された」となります。権大納言も内大臣も朝廷の官位です。正二位はランクです。権大納言も内大臣も期間は短いです。
正二位はかなりえらく聞こえますが、えらいです。

慶喜の位の変遷は以下だと思われます。

  • 一橋家相続時 従三位 左近衛権中将 兼 刑部卿
  • 将軍後見職時代 権中納言 安政の大獄から戻った後ですね。
  • 禁裏御守衛総督時代 ここで 従二位・権大納言を要請されますが固辞しています。
  • 将軍就任 権大納言 兼 右近衛大将
  • 大政奉還の直前 内大臣 征夷大将軍、内大臣 兼 右近衛大将

その他 外国人がどう呼んでいたか?

マジェスティ(majesty) 、ハイネス(highness)、タイクン (tycoon)

慶喜は外国の人と会うのが好きでした。外交の場では、相手をなんと呼ぶかが重要だったりします。
慶喜が将軍として各国代表と会った時、フランスは「マジェスティ」と呼んだのに、英国のハリー・パークスだけが「ハイネス」と呼んでちょっと問題になります。
慶喜が問題にしたというより、フランス公使のロッシュが、「パークスは嫌なやつだから気をつけろ」と問題にしたわけです。フランスと英国は仲が悪そうです。

一方、英国のパークスからすれば、マジェスティ=陛下は英国の女王陛下ですから、そのまま天皇の呼び方になります。そうすると将軍はマジェスティとは呼べない、ということで、英国人なりの理屈はあるわけです。パークスに悪気があったのかどうかは何とも言えません。
ただ、呼び方の混乱にとどまらず、天皇と将軍の二重権力構造は幕末外交上、混乱の元でした。

タイクンは日本語の「大君」からきています。
Google翻訳が「将軍」を英訳すると「Shogun」と翻訳するので、その感覚に近いと思います。
大君は呼び名というよりは、手紙などで慶喜を呼ぶときに使われました。英国公使ハリー・パークスの本国への手紙にも書かれています。

戒名はない

大正二年(1913年)の11月22日に慶喜は77歳で亡くなりますが、戒名はなかったようです。
「葬式は仏式ではなく神道でお願い」と遺言したので、戒名なしです。
慶喜が神道を選んだのは、ミカドを思う気持ちが強かったからだろうと想像します。

まとめの考察

おおうちこむ
おおうちこむ

この時代は名前は変わる、変える感覚なのと、色々な階層に応じたルールで名前がいくつもあります。私たちとはまったく違う感覚ですね。
自分のキャリアのステージが変わると、名前や呼び方も変わっていきます。出世や転職のたびに名前変えるのはやってみたい気もしますが、大混乱ですけどね。

慶喜の場合は特別で、十代の入口で日本トップクラスの高級ブランド「徳川」「慶」の名前が与えられるわけなので、いったん日本の頂点にニアミスしてしまいます。
頭のいい人ですから、ここで「幕府(公儀)」を高いところから見てしまうわけです。幕末の志士たちは、下から上を見てるので、当然周囲の人々とは全然違う感覚で行動したでしょう。「二心殿」や「剛情公」など慶喜のあだ名は、「思ったのと違う、理解不能な人」という驚きが滲みでています。

ケイキ君
ケイキ君

かた苦しい名前は肩が凝るから、ケイキって呼んでもらった方がいいね

おおうちこむ
おおうちこむ

Googleとか外資系企業は日本でもファーストネームで呼び合うので、現代にきたらGoogleに入るとなじむかもしれませんね。

慶喜は「ケイキ」という名前を好んで使ったようです。その響きの無所属なところ、「軽さ」を愛したからだろうと想像します。
軽さを愛し、理解不能なところが、まさに慶喜の魅力です。私の小説では「ケイキ君」とタメ口で呼ばせてもらってます。
多くの慶喜本を読むと、慶喜が将軍になりたがっていた、権力欲があった、けれども負けて逃亡したという前提で書かれています。私はそれを疑っています。
それは普通の人の視線で、キャリアの階段を上がるのがえらい、という常識で慶喜を見てしまっているのではないかと思います。慶喜の目の高さは違うところにあるので、「ケイキ」という軽さには近づけていないと思えるのです。

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