徳川慶喜は大老の井伊直弼(なおすけ)を本社の江戸城で叱りつけます。井伊直弼は畳に額を擦り付けて「恐れ入り奉りまする」とひたすら謝罪を続けます。この対決は、13代将軍家定(いえさだ)の後継ぎを狙った行動だ、という解釈もあります。
タイミングは将軍後継争いの真っ只中
1858年(安政五年)の6月に大老井伊直弼は、天皇の許可を取らずに日米修好通商条約を締結してしまいます。無勅許(むちょっきょ)調印です。
6月23日、これに怒った慶喜は江戸城でチャカポン井伊直弼と初対面して抗議します。そしてこれが、徳川慶喜の政治の表舞台へのデビュー戦となりました。場所は慶喜のオフィスの大廊下上之部屋(おおろうかかみのへや)です。この部屋は忠臣蔵であまりにも有名な松の廊下の奥にあります。
翌日の6月24日は、斉昭パパ(なりあき)と福井藩主松平春嶽(しゅんがく)=当時は慶永(よしなが)が、無理矢理本社に塔城して、井伊直弼を叱り飛ばします。
この1週間後には13代将軍家定が亡くなります。家定はもともと体が弱かったと言われていますが、幕府ワイドショー的には将軍後継ぎ問題が最大の注目点でした。
斉昭パパと松平春嶽は、無勅許調印を糾弾したのと同時に、この混乱の中、次の将軍を決めるのは延期しろ、と要求します。これ「オレの息子を将軍にしろ!」と言っちゃってますね。
慶喜はどうして抗議したかって? そりゃあ、斉昭パパと同じで、条約の調印に怒ったふりして、あわよくば自分が将軍になろうとしたんじゃないの?
なんでそんな話になるかな。私が井伊直弼に抗議したのはそこじゃない。
それに親父殿とは特に結託していない。
慶喜と井伊直弼の対決
慶喜対井伊直弼のやりとりはこんな感じでした(思いっきり端折ってます)。
場所は慶喜の執務室なので、家の格が上の慶喜が一段上に座って、井伊直弼は畳にいたと思われます。若造の上から目線での不利な体制で、井伊直弼がどう受けるのか注目です。
慶喜「米国との条約を無勅許調印したが、それはいいとして、その後天皇にちゃんと説明したか?」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「言語道断、ちゃんと説明しなきゃだめでしょ?」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「まず使者をたてて、できれば大老自らミカドのところに行って直に説明しなさい」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「恐れ入ってばかりじゃわからん。ところで将軍後継ぎの方は決まったのかなー?」
直弼「恐れ入り….. それは慶福(よしとみ)様に決まりました」※慶福=14代将軍家茂(いえもち)
慶喜「それはよかった!すぐに公表してくれ」
直弼「今回は惜しくもはずれましたが、次回はぜひ一橋様にと…..」
慶喜「ふふん」
井伊直弼はゴングとともに、姿勢を思いっきり低くして、いわゆる「ノーガード戦法」で相手の撃つ気を削いでいます。これは一見負けているようですが、よく考えられた高等戦術です。
一方の慶喜は「ミカドにちゃんと説明しろ」という正論でパンチを繰り出しますが、すぐにひっこめてしまって、お世継ぎ問題を付け足しのように、さらっと確認します。
刑事ドラマだと、最後に「ついで」に聞く質問が、実は重要な鍵を握っています。慶喜さんも最後に「ところで」と聞いているその質問こそが、本当に聞きたかったことなんでしょ?
やっぱり次の将軍が、自分になるかを確かめたかった? ですよね?
だから違うってば。かなり近いんだが、実は思いっきりはずしているんだ。
もう少しがんばれ
ここは少し余談ですが、この世紀の対決の最後が「ふふん」で終わった、という点に私は注目しました。こういう小さな違和感が、事件推理のヒントになります。
この場面を描いた小説や漫画は、「ふふん」だと場面が締まらないので、余計なセリフをつけてしまっています。大好きな漫画「風雲児たち幕末編」15巻でも「ここな俗物めがー!」と慶喜が叫んでいます。「オレを馬鹿にするな」と慶喜が切れるという展開です。
しかし、ここは「ふふん」が事実だったんです。
じゃあ何に怒ったのか?
何に抗議したのか?
慶喜は「そもそも条約を結ぶこと」に反対していたのか?
ここは反対していません。そもそも幕府が決めることだと考えていました。慶喜個人もどちらかといえば条約には賛成だったと思います。
条約締結で「事前に天皇の許可を得るべきだったのか?」
この点も慶喜は抗議していません。アメリカという特別な相手がある話なので、ミカドに許可をもらえない場合あっても仕方ないだろう、というスタンスです。
慶喜が怒ったのはミカドに対する「フォローアップ」です。
井伊直弼は条約を結ぶと、そのことをメール、つまり飛脚の宿継奉書(しゅくつぎほうしょ)という速達で知らせました。メールのテヘペロで報告して、それで終わりです。
その後もまったくフォローなし。これは天皇に対して失礼すぎますよね?
これで慶喜は怒ります。誰も言わないんなら、オレが言うと、わざわざ抗議に出向くわけです。
20歳そこそこの慶喜の考え方
この時、慶喜数えで21歳、満だと20歳です。
最初この下りに触れた時、わかりにくい怒り方だな、と思いましたが、よく見直してみてちょっと驚きました。あまりに線引きがしっかりしているのです。とてもハタチのボンボンの判断ではありません。
- まず幕府の役割の線引きがしっかりしています。幕府は天皇と朝廷から外交も含めた行政を委任されています。条約締結は幕府の責任で行うべきことです。朝廷の事前の許可は必ずしも必要ないと考えています。その通りです。
- 外交重視の姿勢が明確です。これが驚きです。すでに慶喜は「外国との約束は特別」ということを理解しています。国内事情でぶれてはいけません。その後の慶喜も、外国との約束は何をおいても守るべきと、外交重視の方針は一貫しています。
- その上で天皇と朝廷には礼を尽くす、それが何よりも大事だと考えています。実はこの尊王が、慶喜の人生、行動原理の根本です。ここを失くしたら日本人じゃない、くらいの深い思いです。
「尊王」「大政委任」「外交重視」この3つは慶喜の政治の根本原理でもあり、その後も一貫しています。そして、この3つのポイントの根底に「国体」が最重要だという信念があります。
「国体」という言葉を私たちは習いませんし、使いません。戦争の苦い経験とか、そういう埃がかぶっちゃってるので理解も説明も難しいです。ただ、とにかく慶喜は一貫して「国体」を守る、という揺るがない基準が根底にあります。
もう本当すごいな、と舌を巻きましたよ。水戸藩の教育がしっかりしていて、同時にそれを学ぶ慶喜も、何が正しいかをしっかりわかっている人なのです。人から言われたからとか、そんなことでぶれたりしません。
慶喜は何がしたかったのか?
ここからは私の仮説です。
慶喜にも、この抗議を急いだ理由がありました。それはまさに将軍後継ぎ問題です。
でも自分が将軍になりたい、という理由ではありません。逆です。自分を将軍に、という斉昭パパの親バカ暴走を止めたかったのです。
斉昭パパは「尊王攘夷」思想の神として尊敬されてた面もあり、一方で評判がよろしくないですよね? 過激発言で注目を浴びて、やがて言ってること無茶苦茶じゃんってなるタイプですかね? 炎上YouTuberならいけそうですが、それにしても、ケイキ君と全然タイプ違いますね?
以前も親父に「いい加減にしろ」と注意をしたんだ。自分の主張を持つのはいいけど、直接朝廷と幕府批判を展開したり、周りがその度に迷惑するんだ。
息子を将軍にと親バカな夢を持つのは勝手だが、さすがに大老に抗議するのは止めたかった。
ここで慶喜がとった作戦が以下です。こんなだと慶喜らしいし面白いんだけどな、という仮説です。
- 斉昭パパが江戸城本社に押しかけ登城するのを事前に察知した。
- 条約調印への抗議だが間違いなく将軍後継問題をひっくり返すためと判断した。これは止めたい。
- やめろと言っても聞かないので、自分が先に同じことをして、親父が行く必要がなくなる、という作戦を建てて実行した。
- 大老に抗議もしたし、次の将軍も決まってるから、もう親父が行く必要ない、と平岡円四郎から伝えてもらった(お願いだ斉昭パパ諦めて!)
慶喜は、チャカポン井伊直弼への抗議は表面的に「やりましたからね」という程度にとどめて、後継問題がすでに決まっている、という点を「ところで」と言いながら、しっかり確認しました。完全にミッションコンプリートです。
井伊直弼から「その次の将軍は一橋様に」と言われても、「ふふん」で終わったのは「もうミッション終わってるし、別にそこ違うんだけどな」という態度だとしっくりきます。
ただミッションは終えましたが、作戦は裏目に出てしまったのです。残念ながらこんな作戦で、斉昭パパの親バカは止められませんでした。それどころか「息子が行ってダメならオレが」とさらに親バカな情熱の火に油が注がれてしまいました。
そして、なんと作戦が裏目に出たどころか、最悪の展開です。
この一連の抗議行動が引き金となり、誰も予想しなかった安政の大獄へと突き進んでしまいます。チャカポン直弼の内なるダースベイダーを覚醒させてしまったのです。
こんな抗議しなけりゃ、もうどんな罪も帰せられないんですが、抗議したばっかりに井伊直弼に罰せられてしまうのです(もちろん、無実は変わりませんが)。
まとめの考察
慶喜の怒り方一つとっても、線引きがしっかりしている点がわかります。
でも、一方でストレートな感情表現ではないので、わかりにくいです。将軍に興味がないから何もしない、という態度ならその後の展開は違っていたでしょう。
後世の僕らはどうしてもわかりやすいストーリーにあてはめたがりますが、「わかりにくさ」が首を傾げさせて僕らを複雑骨折させます。
同時に好きになると沼が待っています。「いや、本当かどうかわからないのに時間使うなよ」と他人から笑われそうな沼に、私もはまっていきます。いいんです。
それとこの小さな政治デビューの場面にさえ、その後の展開の共通項を見ることができます。
作戦完璧 → 現実はずれる → 最後がうまくいかない → むしろ裏目 → いや最悪の展開に…..
というのは、この後も慶喜の人生にも起こります。
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