子供の頃の慶喜はどんな勉強をしたのですか?(ft. 会沢正志斎)

徳川慶喜のよくある質問
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日本トップクラスの先生たちの英才教育

おおうちこむ
おおうちこむ

徳川慶喜は子供時代にどんな教育を受けてきたのでしょうか? 「とても優秀だった」という話だけでなく、子供時代の教育が後の慶喜を作った、という視点で見ていきたいと思います。

まずは基本から。幕末の水戸藩を一言で表現するなら「教育の最高峰」です。
「水戸学」を柱にたてた藩の学校「弘道館(こうどうかん)」は、広さと対象範囲(文武、礼楽、射御、兵法、砲術、操練、数学、医学)で、日本最大規模の総合藩校でした。もちろん集めた人材もトップクラスです。慶喜の教育担当は、この弘道館の優秀な先生たちです。
慶喜の子供時代の教育について『慶喜公伝』に記載があり、茨城県立歴史館のサイトにまとめてあります。簡潔なのでそのまま引用します。

「文学を会沢正志斎と青山延光、
武術のうち砲術を福地広延、
弓術を佐野四郎右衛門、
剣術・水泳を雑賀八次郎、
馬術を久木直次郎が担当した」

茨城県立歴史館 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/tanjo.htm

体育というか武術の先生が4名もいるのが目を引きますね。
国語算数理科社会の必須科目ですが、国語はかなり徹底的にやりました。社会特に歴史は文学に含まれていたと思います。
算数は? 弘道館には図形問題や平方根について書かれた数学の教科書もありました。算数も学んだはずです。ないのは理科ぐらいでしょうか。

慶喜の勉強スケジュールはかなりハードでした。

– 起床後ただちに四書五経の復読。近侍の士が髪を結いながらその間違いを正す。 
– 終わって朝食。  
– 四つ時(午前10時)まで習字。  
– 開館間もない弘道館(天保12年仮開館)に登館して教官より四書五経の素読の口授を受け,さらに館中文武の諸局に臨んで諸生らの修業のさまを見学。 
– 正午に自室に帰り昼食。  
– 午後は習字,復読。 
– 夕方になってようやく遊びの時間が与えられる。遊びは「軍(いくさ)よ火事よ」と勇ましい遊びに熱中した。かなりの乱暴でいたずら者であった。

茨城県立歴史館 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/tanjo.htm

慶喜はもっとも優秀な生徒の一人でした。これはまた別のエントリーで紹介する予定ですが、馬術、銃の扱いなどはプロ並みでした。特に手裏剣は日本代表クラスだったようです。
馬術は単に乗馬がうまいとかでなく、山林を駆けめぐる実践スキルを身につけています。書道も6歳の時の書道とかが残っていますが、子供の頃からもう達筆です。
どの学校にも一人ぐらいますね。「勉強もスポーツも両方できちゃうやつ」多分、それが慶喜です。
もともと頭が良くて、徹底した英才教育ですから、その「英明」さが噂になったのもうなずけます。

ケイキ君
ケイキ君

武術は面白かったけど、文学は退屈ですぐ飽きて、抜け出したくなったな。
でも、ちゃんとやらないと親父が怒るんだよ。座敷牢に閉じ込められたりとか参ったよ。

慶喜の先生 会沢正志斎とは何ものか?

ここからが本論です。今回のブログ記事は、フィーチャリング会沢正志斎(あいざわせいしさい)です。

おおうちこむ
おおうちこむ

会沢正志斎って、そんな人知りませんよ。水戸学の有名人と言ったら、藤田東湖に決まっているじゃないですか?

いったい、慶喜の先生 会沢正志斎とは何者なのか?
この人は幕末水戸学のえらい人です。弘道館の教頭もつとめた人で、斉昭パパが子供の頃も先生でした。
会沢正志斎、その教えを読むと、驚いたことに慶喜の考え方にぴったり合っているんです。それは以下の3点です。この3つはそのまんま慶喜なんです。

  • 国体
  • 富国強兵 特に軍隊の強化
  • 尊王ながら開国主義

当初水戸学は「尊王攘夷」思想で、私は否定的に見ていました。天皇の歴史を研究した学問なので、進歩的でないと勘違いをしていました。
そもそも男性ホルモンが強すぎる斉昭パパは「外国を追い出せ!」と無謀な主張をしていて、これも慶喜とは違うよなーと思いました。
そんなこんなで、水戸藩と水戸学の教育はそんなに慶喜に影響していないんじゃないか、という見方をしていました。むしろ「水戸」は、いろいろ慶喜の足枷にさえなっている、と考えていたのです。

しかし、慶喜の子供時代の教育から「会沢正志斎」を見つけたとき、やはり「慶喜は水戸学でできている」それも「慶喜の9割は会沢正志斎」と思うに至りました。それどころか、水戸学は進歩的な思想だったと知ることになります。

おおうちこむ
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私の小説「ケイキ君と一緒!」で、慶喜(ケイキ君)自身が「大政奉還は子供の頃から考えていた」と語る場面を書きました。本当は会沢正志斎をフィーチャーしたかったのですが、さすがに主人公の高校生が「会沢正志斎」を語るのはありえないので、そこはカット。

会沢正志斎は面白い人です。

もっとも外国を研究した人

会沢正志斎は(オランダ人以外の)外国人をもっともよく知る一人でした。
ロシア人のアダム・ラクスマンが根室に来ると、会沢正志斎はロシアの考えなどを調べ尽くして1801年(享和元年)に『千島異聞(ちしまいもん)』を書いています。
1824年(文政七年)には、イギリス人12人が日本に上陸します。会沢正志斎は筆談役としてインタビュー調書をとっています。これを踏まえて書いたのが『新論』です。
この『新論』は水戸学のバイブルとまで言われ、すぐに吉田松陰に伝染します。長州の人なのに六回も会沢正志斎に会っています。
その後、長州藩の志士たち、そして西郷隆盛などが熱心に学ぶことになります。幕末の志士たちは大きな影響を受けています。

会沢正志斎が「国体」を考えた

新論に「国体」が取り上げられています。「国体」は会沢正志斎が最初に発表したものでした。
私はもっと古くからある言葉だと思っていました。確かに言葉そのものは古くからあったようですが、わたしたちの知る国家のあり方=「国体」は、まさに会沢からなんです。

「国体」は説明が難しい言葉です。ただ重要なので、別のエントリーとして書いてみます。
徳川慶喜が決断した「大政奉還」はまさに「国体」を守るための決断でした。慶喜の根っこです。
「国体」の提唱者が、子供時代の慶喜を教えていたのです。

会沢の思想は新しくて過激な「新論」だった

『新論』という名前に注目してみます。会沢正志斎の考えは、この時代には新しいものだったのです。しかも『新論』は過激で、いったん幕府から禁書扱いを受けています。

新論を思いっきり短くまとめると以下のようになります。

日本伝統の皇国を建設した精神を「国体」とし、日本を配下に置こうと目論む欧米諸国から守るため富国強兵を行い、神道(しんとう)を国教に国民を一つにまとめる

おおうちこむの超訳

いたってまともな考えに見えます。いったい何が新しく過激だったのしょうか? 当時の人になって考えても限界がありますが、一つはおそらく「藩」から「国」へのシフトを語った点です。

それまで日本はJリーグのような、地域ごとの「藩」チームでバラバラに運営していました。レッズとかアントラーズとかが中心で、藩同士の競争社会です。まだ日本代表チームはありませんし、ワールドカップとかありません。そこに会沢は日本代表を持ち出した感じです。
「日本サッカー(国体)を定義して徹底的に強化してワールドカップで戦おう!」
というのが「新論」です。
会沢正志斎は、肖像画のイメージだと古い考え方の頑固なおじさんにしか見えませんが、外人を研究したので、「地球から日本」を考え、幕府を超えて朝廷のもとに一つになる国までを見通した人だったんです。

これを突き詰めると、幕藩体制を壊して、朝廷政権を作るということになってしまいます。また、日本を海外から守るために、海防強化を各藩に訴えたので、この点でも幕府からは睨まれました。
禁書扱いになっても、写本が噂になり、口づてにどんどん広がっていきます。やがて「尊王攘夷」思想の基礎を作るほどに日本中に広がっていきます。

会沢は尊王攘夷なのに開国派

もう一つ注目したのは、会沢正志斎が開国思想を持っていた、という点です。

『新論』は日本を外国から守る「尊王攘夷」思想として、吉田松陰などに伝搬していきます。多くの人にとって『新論』も水戸学も「攘夷」そのものでした。
しかし、その後会沢正志斎は慶喜が将軍後見職になったタイミングで『時務策』という文書を提出しています。

この中で会沢正志斎は、日本の守るべき「祖法(そほう)」とされた「鎖国」の方針は、別に家康の方針でも、日本古来の方針でもないよ、と言っています。
そのころ日本では、鎖国は家康以来の守るべき原則、そもそも朝廷が守ってきた国の方針だという勘違いが蔓延していました。だから外国を受け入れちゃいけないとする主張というか言い訳なのですが、
「それは全然違う、ただの勘違い」と喝破しました。

慶喜が将軍後見職になると、会沢正志斎はこの『時務策』を慶喜に提出します。まさに外国に並び立つために、開国を提案します。
この提案は、水戸学から「尊王攘夷」を学んだぞ、と勘違いした「無謀攘夷派」の人々から総スカンをくらいます。「水戸学の癖に開国とかオワコンだ」と、一気に評判を落とします。

慶喜の90%は会沢正志斎がつくった

大政奉還と会沢正志斎の思想はほぼ一致
おおうちこむ
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会沢正志斎の新論の概要を知った時、あれ? どこかで見たぞ、と思うデジャブ感がありました。ああ、これって大政奉還じゃん、と思いました。

慶喜の考えは会沢正志斎とほぼ一致します。大政奉還を超訳すると以下のようになります。

外国との付き合いが盛んになるから天皇の元に各藩も国民の心も一つにして富国強兵することで外国と並び立ちましょう

おおうちこむの超訳

先ほどの会沢正志斎の「新論」とほぼ同じですね。
慶喜は子供の頃に、会沢正志斎が見ていた世界と日本をすでに教えられていました。
大政奉還という誰もが驚く決断ですが、子供の頃に習った話なので、全然想定の範囲内です。すんなりと決断します。

なぜ会沢正志斎は有名じゃないのか?
街の声
街の声

でも、そんなに面白い人で、慶喜の思想と一致するなら、もっと有名じゃないとおかしくないですか?吉田松陰の先生なら、もっと有名でもいいですよね? 不思議じゃないですか?

徳川慶喜の本を読み直しましたが、会沢正志斎の影響を書いている歴史家が見つかりません。さらに、明治政府を作った人たちが尊敬した吉田松蔭が師事した先生です。もっとフィーチャーされてもよさそうなものです。

会沢正志斎が取り上げられないのは、慶喜の関係記録に残っていないからです。以下が会沢正志斎が記録に残らなかった理由だと推測できます。

  • 『時務策』で開国を主張して評判を落とし、水戸藩からも明治政府を作った志士たちからも顧みられなくなった
  • 渋沢栄一が晩年の慶喜独占インタビューで聞かなかったので慶喜の言葉として出なかった

慶喜が残した言葉を見ていると、「過去への執着」「お世話になった人への感謝」がほとんど感じられません。多分、そういう人なんだと思います。
晩年の慶喜独占インタビュー『昔夢会筆記』でも、慶喜は基本的に聞かれたら説明する。でも過去を説明することに、あまり積極的ではありません。
渋沢栄一が企画したこのインタビューで、幼い頃の教育の影響や、会沢正志斎の影響について掘り下げなかったので、どこにもそう言った話が出てきません。
過去に執着が薄い慶喜ですから、本人の興味もなかったのでしょう。人間青年期に受けた教えについては語っても、子供時代の勉強の話はあまりしませんね。子供時代の教育は確実に自分を作っていると思いますが、改めてそこは振り返らないのかも。

歴史学としては「文書にその形跡が残っていないなら史実にならない」となりがちです。でも、記録に残っていないからって、そこで終えてしまうのはあまりに勿体ないです。

慶喜は、早くから外国を理解していて、外交を重視していました。また、国体という概念が、体に染み込んでいました。そんな尊王家なのに、天皇が外国嫌いでも狭い意味での「攘夷」とはならず、外国に対抗できる日本を目指していました。
決定的なのは、あれだけ幕府の中にいたのに、幕府政権を相対化し、新しい政治体制を見通していたことです。慶喜以外に大政奉還はできなかったでしょう。
単に「頭がよかった」では済まない、当時としては特殊な考えの人だっと思います。その特徴的な思考が、会沢正志斎とぴったり一致するのです。
慶喜はまさに会沢正志斎が作りました。慶喜は会沢水戸学の申し子だったんです。

慶喜教育で足りなかったものは?

おおうちこむ
おおうちこむ

さて、子供時代の教育と優秀さ、そして会沢正志斎の教えについてみていきました。
一方、慶喜の教育に足りなかったものはなんだったのでしょう?

水戸藩の教育で足りなかったもの、それは「経済」だと思います。
慶喜の記録を見ても、軍隊の強化については多くの資料が残っていますが、商売や貿易についてはほぼ言及がありません。
当時は、武士がお金の話を考えるなんてもってのほか、という考えもあったので、これは無理のないことです。

「もしも慶喜が新しい政権を作ったら」そんな妄想をいただいた時、そばに置くべきブレーンは、二人います。
一人は為替に強く、工業発展や株式会社創設に積極的だった小栗忠順(おぐりただまさ)でしょう。
もう一人は藍染事業の経験を持ち、海外の株式会社による経済発展に精通した渋沢栄一です。

小栗も渋沢も、すばらしい出会いだったんですけどね。この出会いが新しい時代に昇華できなかったのは、つくづく残念でなりません。

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