十二代家慶は慶喜を将軍にするつもりだったのか?

家慶からのロックオン 徳川慶喜と幕末歴史
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慶喜11歳 小学5年生で将軍家慶から名指しで指名

1847年(弘化4年)9月1日に、慶喜、当時の松平昭致(あきむね)は、一橋徳川家の養子になり一橋家を相続します(この時点では七郎麿ではありません)。当時11歳、小学5年生です。8月1日に、超エリート老中の阿部正弘は、十二代将軍の家慶からの思し召しとして「昭致を御三卿・一橋家の世嗣(せいし=世継ぎ)としたい」と伝達します。これ慶喜の人生最大の分岐点ですよ。だって、ここがまさに最後の将軍の起点です。

8月ご指名の前だと思いますが、内々に「水戸藩から一橋家に養子出せる?」との打診があったようです。水戸斉昭側は「それって別の子供でもいいの? それとも昭致一択なの?」と逆質問します。
実は斉昭パパは、「長男に万が一があった時のバックアップ」として、優秀な慶喜を養子に出さず手元にキープしたかったのです。
家慶側からの回答は「ダメ。絶対昭致で」という強いご指名でした。これで斉昭パパは、「あれ? これってひょっとして」と何かを感じます。

一橋家は「御三卿(ごさんきょう)」です。「御三家」は「尾張、紀伊、水戸」、「御三卿」は、田安、一橋、清水です。御三家と御三卿は将軍の跡継ぎを出せる家です。御三卿の方は八代将軍吉宗が新たに作りました。それぞれの江戸城の邸宅が造られた門の名前「田安門」「一橋門」「清水門」から取られています。

あんたが将軍! 慶喜は最初から将軍候補だった

おおうちこむ
おおうちこむ

でも、なんで家慶が一橋家の子供を指名しているの?

ケイキ君
ケイキ君

当時の将軍は二代続いて一橋家だ。当時は家系の維持が一番大事だからな。

家斉、家慶は一橋家

なんで将軍家慶から直々のご指名なの? と疑問に思って調べると家慶のお父さん十一代将軍家斉(いえなり)が、もともと一橋家の長男だったのです。
これは余談ですが、家斉は歴代将軍で一番遊びまくった人です。大奥に入り浸って、わかっているだけで16人の妻妾がいて、53人の子供(男子26人・女子27人)を造りました。その上、贅沢三昧で賄賂も奨励しちゃうありさまです。外国人なんて追い出せと、「外国船打ち払い令」という無謀なお触れを出して、無駄に防衛費を使いまくりました。わがまま放題です。
このとんでもない人が歴代最長50年の長期政権ですから、幕府は壊れます。腐敗しまくって、財政が破綻しました。人々の不満がたまり、大塩平八郎の乱を招きます。幕府の信用はガタ落ちになります。ある意味、家斉は幕府崩壊の下り坂の起点となった人です。

さて話を戻すと、家慶は自分の家、つまり一橋家が代々の将軍家を継ぐ流れを維持したかったのだと推測できます。この当時、お家は大事、優先順位の一番です。
家慶に後継の子供がいるものの、後の家定(いえさだ)です。病弱な将軍として有名ですね。どうも一橋家というのは、病弱な家系だったようです。家斉の子どもたちも、その多くが早くに亡くなっていますし、家慶の29名の子供のほとんどが死んでしまいます。当時の一橋家も、後継ぎ不在でした。

これは一大事です。一橋家はなくなりますし、病弱な家定では、一橋家が将軍の流れも途絶えます。
「健康で優秀な子供を養子に」と思うのは当然です。

慶喜は次の将軍としてロックインされた

家慶は将軍としての評価が必ずしも高くありませんが、人事では大胆な抜擢をした人でした。若くて優秀な人材を見つけると、いきなり引っ張り上げます。筆頭老中の阿部正弘は、24歳で老中になっていますからね。大胆な人事を断行できる決断と行動の人でした。

家慶が優秀な慶喜に目をつけて、一橋家に欲しがったのも納得できます。
間違いなく家慶は「次の(その次の)将軍」を見つけた! という気持ちだったでしょう。
そうなんです。慶喜はこの時点で家慶から「あんたが将軍!」とロックオンされたのです。

当然、斉昭パパも「ダメ。絶対昭致で」と言われた時点で感づいています。「いよいよ水戸藩から将軍だ」と密かに興奮したでしょう。
水戸家は、御三家御三卿の中でも、特殊でした。水戸黄門(光圀)は「天下の副将軍」なんて言われてますが、裏を返せば副将軍まで、将軍の世継ぎは出せない家だったのです。斉昭パパにとっては悲願だったのかもしれません。

11歳で将軍から特別扱いされた慶喜

11歳の慶喜は、1847年(弘化4年)12月に家慶から一文字をもらって「慶喜」と名乗ります。元服ですね。元服は11歳から17歳ぐらいに行う成人式で、このとき幼名から実名 (成人後の名前) になります。月代 (さかやき) といって、ちょんまげ用に頭を剃って、前髪を落します。

このころ、将軍家慶が尋常じゃない愛情を持って慶喜に接していたエピソードが複数残っています。
頻繁に一橋家に出入りし、例外的な特別扱いで、まるで二人は親子のようだった、と「昔夢会日記」にも書かれています。
鹿狩に連れて行ったり、慶喜の謡で家慶が踊って見せたり(緊張しただろうな)、鷹狩りを教えたりします。
極め付けは、将軍の跡取りだけが同行する特別な鷹狩りに、慶喜を連れていこうと言い出します。さすがに老中の阿部正弘は「待った」をかけます。「いや、お気持ちはわかりますけど、実の息子がいらっしゃるのに、大騒ぎになりますよ」と。家慶も「そっか、ちょっと早すぎるか」と反省します。でも、早すぎると思ったのですから「いずれは」という気持ちがある、ということですね。
家慶は「慶喜を将軍にとは明言していないだろ」とお叱りを受けそうですが、状況証拠から見て慶喜をいつかは将軍に、と思っていたのは間違いないでしょう。

さて、当時の慶喜を、現代の小学5年生と比べることは難しいにしろ、でもとにかくこの年令でいきなり日本のトップの風景を見てしまいます。人格形成としては強烈で、日本中で他の誰も経験できません。

慶喜はおそらく一生懸命務めを果たしたことと思います。務めといってもこの年ですから、将来の英才教育ですね。もともとかしこい上に、一番成長する年齢です。自分から率先して学び、かなりのことを吸収したと思います。
そして、学びを深めると同時に、幕府のトップがそんなに理想的な風景ではない、と気づきます。

慶喜は早々と幕府と将軍を見切っていた

慶喜は、改革好きの斉昭パパに叩き込まれていたので、「自分がもし幕府を改革するなら」という視点で、将軍と幕府を見ていたと思います。
そんなとき大奥を体験します。実は斉昭パパは「大奥の予算を削れ」と幕府に進言していた人です。慶喜はその大奥を体験して、相当あきれて、うんざりしてしまうみたいです。
水戸にいたときは、年配の女性が一人二人いるぐらいだったのが、はじめて大奥に入ると、慶喜を迎えるために廊下に美女がずらっと並んでいます。「なんだよこれ?」となります。
その後も、次から次へと大奥の女性たちが挨拶に来て、それが延々と続きます。不快なやりとりもあったようです。大奥も斉昭パパを敵視してましたから、その息子ということで、嫌味のひとつも言われて、言い返しちゃったりしたのかも。
いずれにしろ、大奥にあきれ、そこがアンタッチャブルで、幕府の老中たちよりも権力を持っている、と思い知ります。まったく別の惑星に来た気分だったと思います。

この時期の慶喜は日本のトップの風景を急激に吸収し、同時に将軍や老中でさえも幕府の改革は無理だ、と判断します。結論に到達するのが早いんです。ある意味正しかったでしょう。
幕府や将軍、ましてや大奥とは距離を起きたい、と思ったのは間違いありません。怖いというより、誰がやっても失敗するプロジェクトに関わる必要なし、と分析したのではないでしょうか。

やがて自分が将軍候補と噂されるようになると、「改革に失敗するから将軍やりたくない」という手紙を斉昭パパに送ります。この手紙の裏の心理を読む(いったん引いて見せる?)歴史家もいますが、年齢考えると、文面そのまんまの解釈でよいと思います。

まとめ 将軍にさせたい勢力と将軍になりたくない慶喜

ここまで書いてきて、やはり一橋家相続は慶喜の人生最大の分岐点であり、その後の起点になっていると思います。大袈裟ですが、ここが大政奉還の起点となるビッグバンで、こっから慶喜の苦悩がはじまりました。

  • 家慶が、将軍候補として慶喜を一橋家の養子に指名します。ロックオンです。
  • 慶喜は将軍や大奥を間近に見て、幕府は改革できない、しても無駄だと判断します。
  • 慶喜を将軍にさせたい勢力と、慶喜自身の気持ちとの大きなギャップができます。

その後も、この3つの動きが延々と慶喜周辺で起こり続けるわけです。家慶が阿部正弘になり、松平春嶽や島津斉彬、平岡円四郎、板倉勝静や永井尚志と、いろんな人が慶喜を将軍候補として推し続けます。

将軍家慶は、慶喜を将軍にすることなく、ペリー来航の時に病気で亡くなってしまいます。
ペリー来航から通商条約へ、海外列強からのプレッシャーが日本を襲います。朝廷の反発を契機にして、攘夷が活発になります。幕府の地位は急激に低下していきます。
家慶に続いて、慶喜を推した阿部正弘も、1857年(安政4年)に急死してしまいます。
ともかく慶喜は、普通の人(将軍すごい!)の目線と、明らかに違う目線です。将軍になりたくない、という周囲に理解不能な思いを抱えたまま、周囲の思惑と自分の気持のギャップが作り出す乱気流に揉まれていきます。

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