ヒディンク・マジック 一言でオセロゲームをひっくりかえす男

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「その後も同じようなことが何度も起きたが、そのたびに私の一言が子供たちにナイフを置かせ、なんの事故もなく問題を解決した」
フース・ヒディンク自伝 韓国を変えた男 文芸春秋

ユーロ2008、ロシアがオランダを破った直後、僕は友人と他愛のない会話をしていた。
オランダファンの友人は、ロシアを率いたヒディンクが「空気を読めないやつだ」と不満気だった。
「ヒディンクさえいなければ、準決勝はオランダ対スペインになるはずだったのに」
確かに、このユーロで、そのカードは最高の対戦になったはずだ。
僕らは、ヒディンクが日韓とドイツのW杯で、「空気」を壊し続けたことについて文句をあげつらった。
日韓W杯のとき、韓国代表監督だったヒディンクは次々に強豪を破っていった。ポルトガル、イタリア、スペイン。
オーストラリア代表監督としても、もう少しで優勝国のイタリアを倒していたかもしれない。イタリアの勝利はロスタイムのPKだった。
日本人としての本音もあった。
ヒディンクさえいなければ、日韓W杯での日本代表の成績は、もっと輝いて見えたはずだ。ヒディンクがオーストラリア代表監督でなければ、ドイツW杯で引退を決意したヒデはイタリアと戦っていたかもしれないのだ(ちょっと無理がある?)。
「そもそもヒディンクがロシアの監督じゃなきゃ、イングランドがユーロに出てたんだ」
今、気がついた、と友人は自分の発言に驚いていた。
ユーロの予選で、イングランドとロシアは同じグループにいた。
「イングランド見たかったなぁ」
友人は少しだけ考え込んでから呟いた。
「ヒディンク、やっぱすげえな」
「どこがすごいんだろう?」僕は彼と一緒に考え込んだ。
「わかんね、ヒディンク・マジックだろ」友人は面倒くさそうに言った。
「なんだろう、ヒディンクのマジックって?」
さらに面倒くさそうに付け加えた「大内君、そこんとこ宿題ね」
ユーロの後半、メディアはヒディンクマジックをひも解く記事であふれていた。
「アルシャビンの守備を免除したのが勝因だった」という解説があって、ちょっとだけなるほどと思った。多くの記事やコメントが、試合中のフォーメーションや戦術に言及していたが、読んでもよくわからない。個別の状況が解説できても、別のゲーム、別の対戦相手には違う話になっているはずだ。
僕はちょっとだけ視点を変えて、オランダ戦前のヒディンクになってみた。
FIFAランキングは最低、平均年齢がもっとも若く経験の乏しいチーム、薄い選手層、大きな大会で負けてきた歴史。
初戦の大敗、主力選手を欠いたままの序盤戦、オランダより厳しい日程、オランダより低い平均身長、スタジアムを染めるオレンジ色、オランダの美しい勝利を期待する圧倒的な空気・・・
アルシャビンは、オランダ戦前に、「相手がオランダじゃなければ」と語っていた。
ヒディンクに用意されていた時間は少なかった(中二日)。前日の戦術練習は10分間。その上、何人かの選手は、コンディションを崩していたとも伝えられる。
なんかいいところを探すのが難しい。
オセロゲームなら、盤上のほとんどのコマが、戦わずして敵のオレンジ色になっている状態だ。試合会場も、オレンジ色に染まっていたし、客席にはクライフまでいた。
この状況を、ひっくり返したのかぁ、、いよいよすごいな。
僕はロシア戦のゲームを見返した。それから、ヒディンクの記者会見、過去のインタビュー、日韓の直後に出た彼の自伝「韓国を変えた男」を読んでみた。
二つのことがわかった。ヒディンクは選手のコンディションに、異常なエネルギーを割いている。韓国W杯の彼の日記は、かなりの部分が、韓国主力選手のコンディションについてえんえんと語っている。戦術よりコンディションの方が大事そうに見える。
そして、もう一つは、ヒディンクが、人生のあらゆる場面で、一見ネガティブに見えるオセロゲームのコマを、ポジティブに変えていることだ。先入観を取り払い、目の前の状況を分析して、希望と自信を見い出す。
韓国代表選手に、世界的に戦える長所を次々に見つけていく。アンジョンファンに、ロマーリオと同じメンタリティを見つけだす記述があって面白い。
一つ印象的なエピソードを見つけた。
彼は監督になる前の選手時代、特殊学級を教える体育教師を兼任していた。午前7時から2時までは教師、午後4時からはプロサッカー選手、放課後はまた生徒や家族たちと向き合う、そんな生活だったようだ。
10年以上(73年から84年)、13歳から20歳までのさまざまな人種の非行少年、精神障害児、身体障害児、学習不振者たち(翻訳文のまま)と真剣に向き合いながら時間を過ごす。

「当時、特殊学級の子供たちは社会に出て成功する可能性がほとんどないという絶望的な”生”を生きていた。私の使命は、そんな子供たちにひと筋の希望を与えることだった」

若きヒディンクは、その場所で危ない経験、命にかかわる経験を何度もしてきたという。
ある時、赤い髪の少年が、ナイフを持ってやってきたこともあった。ぎりぎりの状況で、ヒディンクは少年に声を掛ける。その声がきっかけで、少年もナイフを捨て、涙を流して謝ったという。

「その後も同じようなことが何度も起きたが、そのたびに私の一言が子供たちにナイフを置かせ、なんの事故もなく問題を解決した」

危機的な状況、短い時間、とっさの判断、限られた一言、監督や教育者のほんの一言が、目の前の状況を180度変える経験を、ヒディンクは教育現場で重ねてきた。絶望の中に、信頼と希望を見つける術を、子供たちから身をもって学んできた。
ヒディンクのマジックは、戦術やフォーメーションではない、と今は思える。表面的にはそうでも、むしろ凄いのは勝てると信じて戦えるチームがあることだ。
目の前の状況が表面的にネガティブであっても、常に希望を見出し、少ない言葉で共有し、そしてチーム全体を前に進ませる。
オランダ代表のスナイデルが語った言葉が印象的だった。
「私たち(オランダ代表)のコンディションはよかったと思っている。しかし、オランダにとって誤算だったのは、主導権を握ったのがロシアだったということだ。(中略)ロシアの選手全員が、試合前だというのにリラックスしていて、試合を楽しみにしているように見えたんだ」
ヒディンクは試合前すでに、オセロのコマをひっくり返していた。選手全員が、そのヒディンクの言葉を信じることができた。それがどんな言葉かはわからなかった。でも、多分当たり前の言葉だ。当り前でも、ヒディンクはその言葉がチーム全体に「信頼と希望」をもたらすことを知っていた。
「信頼と希望」
ヒディンク勝利の極意は「信頼と希望」ということで、、、
ぜんぜんサッカーらしくない結論で「なんだそれ」と友人には言われそうだ。
でもこの結論なら、強い相手と難しいゲームを戦う、すべてのカテゴリのサッカーチームが、お守りにできそうだ。信頼と希望さえ持てれば、君たちも勝てる。

コメント

  1. #84 より:

    読みました。
    感謝します。
    やってみます。

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