相馬直樹の引退

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「W杯の出場権を賭けた戦いはサッカーであってサッカーじゃない。勝つか負けるかだけが問われる戦争なんです。」フランスW杯最終予選を終えてエルゴラッソ 2005年11月14日 ありがとう! 相馬直樹 引退特集

「やはり僕は6歳からサッカーを始めまして、ずっと上を目指してやってきて、大きな目標ということでやってきて、自分でその目標を取り除くのですが、次の挑んでいく目標というのを見つけられていません。ただ、このサッカーがなければ、今の自分はなかったと本当に思っていますので、どんな形であれ、サッカーに関わって、サッカー界のために少しでも役に立てたらと思っています。 」相馬選手の引退記者会見全文 川崎フロンターレ ホームページより

月並みだが、失ってはじめて、その重要さに気づくことがある。
ストイコビッチの最終戦でスタジアムに足を運んだとき、「なぜ、もっと彼の試合に足を運ばなかったのだろう」と心底失ったものの大きさを知った。
相馬直樹の引退がを知ったとき、僕は同じような後悔の思いで軽く声を上げた。
あっ、まずい、と思ったのだ。
彼の引退を知って、本当に彼のプレイが心から好きだったことに気がつくのだ。
8年前、僕はずっと彼を見ていたのに、ここしばらくは彼の存在を忘れていた・・・・なんということだ。
引退でとってつけたように言うようだが、僕は彼のプレイが好きだった。
彼が左サイドのラインの上にぴったりと立って、フリーになったとき、僕は、彼に出るパスを思ってどきどきしたものだ。
名波や中田から相馬にパスが出る。彼は、そのままサイドをまっすぐにあがって、センタリングを上げることもあれば、少し走ったあとに、突然、センターに切れ込んでゴールに向かって走りこむこともある。
フランスW杯の予選。
当時は胃の痛くなる思いでスタジアムに通い、ふがない日本代表に怒り心頭で、仕事が手につかなかった。
そして今となっては、輝かしい美しさで、思い出される物語りだった。
僕と僕の家族は多くの時間を、胃の痛くなるような思いで、国立のスタジアムに通って過ごした。
相馬の引退を知ったその夜、僕は突然のように、フランスW杯の予選のビデオを出してきて、家のテレビの画面に映し始める。
「なんでこんなの出してきたの?」
文句を言いながら、それでも、足を止めて、テレビに釘付けになる妻と息子。
当時、彼は6歳で、小学1年生になったばかりで、妻も僕も8年分若かった。「覚えてる、覚えてるよ」とうれしそうに声を上げる。
でも、そこに映し出された久しぶりのサッカーは、思い出の中で美しくなったものとは少し違っていた。
「ねえ、ねえ、あのときのサッカーってこんなにゆるかったんだ・・・・これじゃ、世界に勝てないよね」
あの時、6歳の息子を夢中にさせた日本代表のサッカーは、今、14歳になって目の肥えた息子にとっては、目も当てられないほどひどいサッカーになってしまっていた。
サッカーをおそろしく知らない僕から見ても、8年の差は歴然としていた。
それでも、相馬のセンタリングのタイミングと鋭さだけは、今見ても十分、見るに耐えられる、高いレベルにあった。
それは、今の日本代表の左サイドバックが、目を覆うばかりにひどいせいかもしれない。ひょっとして、サントスよりも、相馬の方がよかったんじゃないか、と思う。

相馬のプレイは、一言で言えば、クレバーだった。多分、スピードやテクニック、ディフェンスの戦術は進歩しても、「頭のよいサッカー」は、時代の中でそれほど変わらないのかもしれない。

「苦しかったけど、楽しかった」
プレイのレベルの低さとは、相反するように、あのときの熱い想いが少しづつよみがえってくる。
あのときのような思いは、今年のアジア最終予選にはまったくなかった。
「生きるか死ぬかの戦争だった」と相馬が言った雰囲気は微塵も無かった。
8年で日本代表のサッカーの質は驚くほど進歩した。けれども、同時に、僕らは、とても大切なものを失った。そのことを、改めて思い知り、そして、また相馬を失ったことの空白を思うのだ。
僕は彼が優秀な指導者になる確信がある。
決して、Jのトップレベルの監督である必要はない。指導者のレベルに優劣はない。
彼がやがて、少年サッカーやスクールのコーチとして、あるいはユースの世代の優れた指導者になるような気がするのだ。

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